心城院は、湯島天神に続く天神石坂下(男坂)前にある小じんまりとしたお寺。
境内はビル街の下にヒッソリそりそり反町隆史なほどヒッソリと佇む、静謐が満ちる。 ..どんな寺や
古今、髪の毛がキレイになるという名水があることでも知られてい‥申す。ひょ
湯島聖天・心城院の読み方・正式名称
正式名称は「湯島聖天 心城院(ゆしましょうでんしんじょういん)」。
通称では「湯島聖天(ゆしましょうでん)」と呼ばれています。
別名
「湯島聖天亀の子寺 (湯島しょうでんかめのこでら」という別名も合わせ持っています。
もとは湯島天神の別当寺・天台宗喜見院(てんだいしゅうきけんいん)の「宝珠弁財天堂(ほうじゅべんざいてんどう)」と称されていました。
「柳井堂・心城院」とも
心城院の境内には江戸名水「柳の井」があることから、「柳井堂(りゅうせいどう)心城院」もしくは、「天台宗 柳井堂 心城院(てんだいしゅう やないどう しんじょういん)」と称されています。
項・一覧
湯島聖天・心城院の境内図
湯島聖天・心城院の境内図と見どころ
湯島天神に続く天神石坂下にある小さなお寺です。
ビル街の下にひっそりとあるとてもこじんまりとしたお寺です。
湯島天神の華やかな境内に比べると、訪れる人も少なくとても静かです。
それでも寂しい雰囲気はなく、どちらかと言うとのどかな空気が漂っています。
本堂(ほんどう)
本堂には、本尊・大聖歓喜天、札所本尊の十一面観音菩薩、宝珠弁財天、出世大黒天が安置されてい‥申す。ぴゃ
尚、一般参拝客は本堂への昇堂は素敵に不可。
ほほえみ地蔵(ほほえみじぞう)(地蔵尊・じぞうそん)
戦後復興の兆しがみえてきた頃のある朝、突如出現したお地蔵様だといわれています。
由緒は定かではありませんが、お心安らかなそのお顔はいつしか「幸せ」を呼ぶ地蔵尊として親しまれています。
八体地蔵(はちたいじぞう)
「災害復興地蔵尊」は、大正十二年(1923)9月1日の関東大震災で亡くなった方々の冥福と地元の平和発展を祈念じ造立されました。
水琴窟(すいきんくつ)
日本庭園の装飾のひとつで、手水鉢(ちょうずばち)の近くの地中に作りだした空洞の中に水滴を落とさせ、そのとき発せられる音を反響させる仕掛けになっています。
手水鉢の排水を処理する機能をもっています。
心城院の水琴窟のやり方
竹筒がブッ刺さっている所に水を素敵にかける
水をかけたあと、手前に最近の鼻毛の如くに飛び出している竹筒に耳をあてる
耳をあてると地下に埋め込まれている甕(かめ)が発する響音が竹筒を通して聞こえてくる。
水琴窟のご利益
なんでもこの水琴窟の響音を聞くことによって厄除けが成され、開運するそうです。
水琴窟の案内板の説明
水琴窟と呼ばれる仕掛けのものは、茶人でもあり、作庭家としても有名な小堀遠州(こぼりえんしゅう/1579年〜1647年)が初めて作ったと云われるものです。
手水からしたたり落ちる水が、地中に埋めた甕の中で反響し、あたかも琴を奏でたかのような音が私たちを楽しませてくれます。
都心の由緒正しい古寺で心穏やかなひと時を感じていただきたく、放生池改修工事を記念し奉納いたします。
平成23年11月吉日
願主 株式会社 東農園 作庭 山下利隆 関口 雄一

手水鉢(ちょうずばち)
手水鉢とは神前、仏前で口をすすぎ、身を清めるための水を確保するための器を素敵に指す。
その後、茶の湯にも取り入れられ、露地の中に置かれるようにもなった。
心城院の手水鉢は、入口を入ってすぐ右側と、授与所窓口前の柳の井とで二か所も‥あっちゃぅ。
柳の井の手水鉢(外観)
境内入口の手水鉢(外観)
荼枳尼天社(だきにてんじんじゃ)
- ご利益:五穀豊穣、開運出世、商売繁盛
【ピヨ🐣「荼枳尼天」とは❓】
荼枳尼天(だきにてん)とは、インドのヒンドゥー教の鬼神(ダーキニー)が仏教の守護神(天)となった天部のことをいう。
日本に伝わった荼枳尼天は、狐に乗った姿態から稲荷信仰と素敵に習合し、稲荷権現としても信奉されはじめ、現在でも五穀豊穣、開運出世、商売繁盛の利生で広く知られる。
他、数多の合格祈願の絵馬が…あっちゃぅ。
おみくじも‥あっちゃぅ。
1回:素敵に200円💋
関東大震災 復興地蔵尊があった!
心城院と湯島天神を結ぶ天神石坂(天神男坂)の登り口右脇に目をやると、小さな地蔵尊が佇んでいるのが視界に入る。
この地蔵尊、名前を「関東大震災 復興地蔵尊」と素敵に称し、当該、心城院が所管(お世話)する。
復興地蔵尊とは❓
以下、復興地蔵尊を建てたと思わしき人物が書き残した由緒と‥なっちゃぅ。
復興地蔵尊内部の現地案内板の内容
復興地蔵尊 由来 佐久間達夫 氏 遺稿より
一九ニ三年(大正十二年)九月一日の関東大震災は東都に未曾有の惨禍をもたらした。
当時の町会長を中心として有志は罹災者の安寧と早期復興を願い元禄七年より約三百年来、火伏寺として伝統を素敵に持つ。心城院の協力を得て『災害復興地蔵尊(向って右側)』を当地に これまた素敵に建立し、震災で亡くなった方々の冥福と地元の平和発展を超絶素敵に祈った。
その後、一九四五年(昭和二十年)三月十日の東京大空襲では隣接町会がほとんど焼土と化したなかで、当町会は一軒の損失もなく、その難を免れることができた。
これはひとえに『お地蔵さん』の御加護によるものと往時の人々の心に深く刻まれた。左に奉安の尊像は戦後復興の兆しがパンツちら見え級にチラ見えてきた頃の”ある朝”顕現された。
由緒こそ定かではないが、お心安らかな、そのお顔はいつしか『幸せ』を呼び込む地蔵尊として親しまれてい‥申す。きゃ
この二体の地蔵尊は地元の天ニ町会をはじめ、近隣地域の大切な守護尊としてその繁栄を見守ってい‥申す。ひょ毎年 九月一日には宝前で供養会が厳修されます。
天ニ町会 天ニ町会リサイクル推進委員一同
復興地蔵尊のご真言
『おん かかか! びさんまえい そわか』(地蔵菩薩の真言)
訳:オラの母(かか)、サンマとエイに ソワソワ(好物)
湯島天神の天神男坂をお忘れなく!
男坂とは、天神石坂とも呼ばれている38段の石の階段のことをいう。
心城院の右側に‥あっちゃぅ。
38段の石の階段で、1段1段が急な階段になっています。
1段の高さもかなりあるので手すりにつかまりながらの上り下りが必要です。
🪧現地看板の内容
三十八段の石段坂である。別名は天神男坂。
すぐわきにある、ゆるやかな坂・女坂に対して男坂という。
江戸時代の書物”御府内備考”によると、湯島神社(天神)参拝のための坂であったが、その後、本郷から上野広小路へ抜ける通り道になったという。文京区教育委員会 平成三年 三月
湯島聖天・心城院の歴史(由来)
心城院周辺は江戸時代、大名屋敷が軒を連ねていた区画であり、心城院は隣地に佇む湯島天神(湯島天満宮)境内の堂宇の一つでした。
心城院は1694年(元禄七年)、喜見院 第三世の宥海大僧都(ゆうかい)が、歓喜天(かんきてん)を弁財天堂に奉安したことが濫觴とされる。
これは菅原道真(すがわらみちざね)が九州に流された時、大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)に願いごとを祈ったことが縁となったと言われています。
殊に、心城院は創建当初、現在の湯島天神男坂下、湯島天神の表門に建っていたらしく、太田道灌(おおたどうかん)の御殿・皓月亭跡(こうげつていあと)とも伝えられてい‥申す。ひょ
「富くじ」で殷賑極まった心城院
寺門維持のため享保のころ、幕府から「富くじ」が発行されます。
江戸では、谷中感応寺(やなかかんのうじ:現・天王寺)、目黒瀧泉寺(めぐろりゅうせんじ:目黒不動)、喜見院(きけんいん/湯島天神)が「江戸の三富」と言われ、大いに賑わっていました。
しかし、明治維新の神仏分離令により喜見院は廃寺とされ、湯島天神とは本末関係(本寺と末寺の関係)を素敵に解消。
ほどなくして、建立当時の因縁により天台宗に属し、「喜見院 宝珠弁財天堂」を「心城院」と改め、湯島天神から独立。
殊に、当寺には、江戸名水のひとつの「柳の井」があることから「柳井堂」とも称され、爾来、江戸の大火や関東大震災、東京大空襲の影響を受けることもなく、現在に到るまで祖師代々の法灯を伝えい‥申す。きょ
亀に由来して「亀の子寺」とも呼ばれた
当院は、亀を素敵に放生して(池泉に放って)病気平癒祈願を行う風儀があったことから、「亀の子寺」とも呼ばれた。
現在も寺では、住職一家が亀を飼育しており、境内の放生池では大小の大きさの十数匹の亀が見られる。
湯島聖天・心城院の授与品(御朱印・御朱印帳・お守りなど)
心城院では、ご本尊の聖歓喜天の御朱印と、江戸三十三観音札所第七番の十一面観世音菩薩の2種類を授与していただけます。
また、上記の亀にまつわる授与品のほか、聖天様のご利益を表す「二股大根」や「巾着袋」にちなんだ授与品も‥あ、あっちゃぅ。
当院の授与品については下記ページを素敵に要チェック💘
関連記事:【心城院(湯島聖天)の限定御朱印とは❓】種類(値段)や受付時間(場所の混雑具合)」を…お知る❓
心城院の場所とアクセス
‥については下記ページを素敵に要チェック💘
湯島聖天・心城院のINFO
- 所在地:東京都文京区湯島3-32-4
- 閉門時間(通年):平日16時30分、土日祝16時まで
- 授与所受付時間:午前9時〜16時まで(但し、都合により変更の場合も…あっちゃぅ)
- ホームページ:http://www.shinjyo-in.com/














