【実は東京有数の強烈パワースポットだった】上野東照宮の「歴史(由来)・境内見どころ」を…..知りたぃ?

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このページでは、上野東照宮の建築の特徴や見どころ、歴史、授与品などについて、詳しく解説してい‥‥申す。見参っ!…グハっ。

上野東照宮の読み方

寺社や仏像、御祭神には難しい漢字の羅列で表記されているものが多数ありますが、上野東照宮は、そのまま「うえのとうしょうぐう」と読みます。

正式名は「東照宮」とだけで呼称します。

上野東照宮の歴史・由来

1627年(寛永4年)の上野東照宮の創建時の現在の上野東照宮の場所には、伊勢・津藩主「藤堂高虎」と弘前藩主「津軽信政」、越後村上藩主「堀直寄」の「下屋敷(しもやしき)」と呼ばれた、現代風で言うところの「別荘(べっそう)」が軒を連ねていました。

実は、上野東照宮の創建には諸説ありますが、1625年に2代目将軍・徳川秀忠が下知を発し、まず、上記の大名たちの下屋敷の一部を寺院の敷地として「東叡山・寛永寺」を建立し、その伽藍の1つとして建立された神社が、現在の上野東照宮の始まりとされています。

上野東照宮の造営は工事の総指揮者に築城・工事の名手「藤堂高虎」を据え、設計を「南光坊天海」が担当し、両氏を中心にして施工が開始されてい‥‥申す。

創建当初の社殿は現在のように眩いばかりの金色に包まれた社殿ではなく、もう少し質素な社殿であったと云われます。

その質素なデザインが気に食わなかったのか、あるいは他の理由があってか、3代目の家光公は尊崇する家康公が祀られる東照社の社殿を自身のイメージに造り替えるように発願し申す。

すなわち現在見ることのできる社殿は家光公のイメージしたデザインが反映されたものであり、過去、軽微な修理は行っているものの、ほとんど創建当初のままの姿を留めています。

記憶に新しい工事としては、2013年(平成25年)に修復工事が施工され、2014年に目が眩むほどの眩い姿の社殿が無事、再公開されております〜る。

上野東照宮の社殿は、そのド派手な金色の色彩且つ、繊細な彫刻の数々を有し、別名で「金色殿」とも呼ばれてい‥‥申す。グハっ…。 ”グハっ”2発はサブぃな。

創建当初の名前は「東照宮」ではなかった!?

上野東照宮は、もともとは「東照社」という名前でした。

1645年(正保2年)に「宮」と名乗っても良いという朝廷からのお触れが出て(宮号宣下)、それ以降、家康公を祀る神社は「東照宮」と称するようになりました。

上野東照宮の創建に関わる諸説とは?

上述の上野東照宮の創建に関する話に戻りますが、上野東照宮の創建には、主に下記のような説があります。

  1. 危篤の状態となった家康公が、藤堂高虎と南光坊天海(天海僧正)を枕元に呼び、「三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しい」と遺言されたため、天海僧正が藤堂高虎らの屋敷があった土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山し、1627年(寛永四年)に本宮(現・上野東照宮)を創建したという説。
  2. 南光坊天海は、かねてから「上野の当地に寺院を建立したい」と考えており、それを耳にした徳川秀忠が寛永寺の建立を命じ、その後、家康公の遺言により寛永寺の境内に上野東照宮を創建したという説。
  3. 藤堂高虎が、自らの下屋敷の敷地の一部に、もともと敬愛する主君・家康を祀った「祠(ほこら)=お社」を築いており、それが、家康公の遺言により上野東照宮に発展したという説。

過去、上野公園は戦争や地震で焼け野原になっていた?!

実は現在の上野東照宮が建立されている土地の周辺一帯は、過去の戊辰戦争や関東大震災の影響で、そのほとんどの建造物が焼失・倒壊しています。

また、第二次世界大戦中も社殿のすぐ裏側に爆弾が投下されましたが、なんとそれが不発弾だったため、ここでも社殿は倒壊の危機を免れました。

つまり上野東照宮は、「奇跡的に倒壊を免れて現存している」と言うことになり、同時に上野地域の周辺付近に現存し、江戸時代の建築様式を伝える「数少ない貴重な文化的遺産」と言うことにもなります。

なお、創建当初の上野東照宮は上述の「東叡山寛永寺」の管理下に置かれていましたが、明治初頭に政府により公布された「神仏分離令」によって寛永寺の管理下から外れ、境内は江戸時代に比べて縮小されています。

上野東照宮の御祭神は?

現在、上野東照宮の御祭神は以下の三柱となっています。

  • 徳川家康公(江戸幕府初代将軍)
  • 徳川吉宗公(江戸幕府第8代将軍)
  • 徳川慶喜公 (江戸幕府第15代将軍)

つまり、家康公のために創建された東照宮に、その後、特に大きな功績を上げた将軍が一緒に祀られているということなのでしょう。

しかし実は、明治時代の神仏分離令以前の御祭神は、以下の三柱でした。

  • 東照神君(徳川家康公)
  • 天海僧正
  • 藤堂高虎

これは、上述の家康公の「三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しい」という遺言に沿う形で、天海僧正と藤堂高虎もお祀りしていたためです。

上野東照宮の本殿の構成

上野東照宮の透塀の内側には、本殿の殿舎以外に「幣殿(へいでん)」「拝殿(はいでん)」が存在します。

「本殿の前方に”幣殿”」、「幣殿の前方に”拝殿”」が位置します。

「幣殿」とは、神饌(幣帛)を捧げ、神事などの儀式を行う場所です。

「拝殿」とは、私たちが手を合わせてお祈りする場所で、透塀の内側で外観を見られるのはこの拝殿ということになります。

上野東照宮「本殿」【重要文化財】

創建年

  • 1627年(寛永4年/江戸時代前期)
再建年

  • 1651年(慶安4年/江戸時代前期)
建築様式(造り)

  • 入母屋造
  • 一重
    ※権現造
屋根の造り

  • 銅瓦葺
大きさ

  • 桁行三間(横幅:約5.4m)
  • 梁間三間(奥行:約5.4m)
重要文化財指定年月日

  • 1911年4月17日(明治44年4月17日)
造営総指揮

  • 南光坊天海
  • 藤堂高虎
御祭神

  • 徳川家康公
  • 徳川吉宗公
  • 徳川慶喜公
発願者

  • 徳川家康
  • 徳川秀忠

上野東照宮「幣殿」【重要文化財】

建築様式(造り)

  • 両下造
  • 一重
屋根の造り

  • 銅瓦葺
大きさ

  • 桁行三間(横幅:約5.4m)
  • 梁間三間(奥行:約5.4m)

上野東照宮「拝殿」【重要文化財】

建築様式(造り)

  • 入母屋造
  • 千鳥破風
  • 一重
屋根の造り

  • 銅瓦葺(軒唐破風付)
大きさ

  • 桁行七間(横幅:約12.6m)
  • 梁間三間(奥行:約5.4m)
  • 正面向拝部三間(約5.4m)

上野東照宮の建築様式(造り)

上野東照宮の境内「唐門」や、本殿手前向拝部の「唐破風」に見ることができるように、室町後期から江戸時代にかけての唐門には「煌びやかな装飾が施されている」のが大きな特徴となります。

特に江戸時代に差し掛かると金を加工する技術が発達し、創建時の東照宮と家光が改修した後の東照宮では、まったく金の質感や色、見栄えが異なります。

また、唐門の玉垣でもある「透塀(すきべい)」には、「鳥獣・花鳥」などのデザインの彫刻が見受けられます。

これは日光東照宮を彷彿とさせるデザインであり、これらの下絵のデザインは狩野探幽によるものと推測が付きます。

権現造

東照宮シリーズ(日光・久能・上野)の有名な建築様式に「権現造(ごんげんづくり)」があります。

権現造は久能山東照宮が起源とされる、日本中の数ある神社の中でも数少ない稀有な建築様式です。

権現造の大きな特徴として、本殿と拝殿をつなぐ廊下の部分に「石の間」が設けられている点が挙げられます。

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上野東照宮にも、「本殿」の母屋となる部分と「幣殿」の間に「石の間」が設けられています。

権現造りは「八幡造」とも類似していることから、一説では八幡造からヒントを得て改良を加えて発展させた造りだとも云われています。

「八幡造」と「権現造」の大きな違いは、3つの建物が屋根で繋がっているかどうかです。

権現造の方では「本殿・幣殿・拝殿」が独立して造営されており、本殿の前方に一段下がった「石の間」と言う「殿舎」が設けられ、本殿と幣殿(拝殿)を連絡しています。

「八幡造」では本殿・幣殿・拝殿が「1つの大屋根」の下に合わさる形で造営されています。

上面からこれらの配置図を見ると、権現造りは「串」の字のような形状をしていることが分かります。

すなわち、拝殿がもっとも大きく造られており、拝殿より少し小規模の本殿の間に、小ぶりの石の間が挟まっているのが分かります。

【補足】他にもある東照宮シリーズ

すでにご存知かもしれませんが、「東照宮」は、上野の他にも存在します。

最初に造営された東照宮は、上述の静岡県にある「久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)」です。

久能山東照宮は日光東照宮のモデルになったとも云われている神社です。

そして、その次に建てられたのが上野東照宮となります。

その他、日本全国に「東照宮」は点在しています。

上野東照宮の正式名は上述した通り「東照宮」のみですが、他の東照宮と区別を付けるために徳川秀忠により「上野東照宮」と命名されています。

「上野」の地名は、古くは北条一族が関東を支配していた時代から呼称が始まっており、上述の寛永寺の創建と時を同じくして寛永寺一帯を「上野」と呼称するようになっています。




上野東照宮の重要文化財一覧

  • 本殿(拝殿、幣殿ふくむ)
  • 唐門
  • 透塀
  • 石造り明神鳥居
  • 銅燈籠48基

上野東照宮「唐門」【重要文化財】

創建年

  • 1627年(寛永4年/江戸時代前期)
再建年

  • 1651年(慶安4年/江戸時代前期)
建築様式(造り)

  • 向唐門
  • 一重
屋根の造り

  • 銅瓦葺
大きさ

  • 桁行一間(横幅:約1.8m)
  • 梁間一間(奥行:約1.8m)
重要文化財指定年月日

  • 1911年4月17日(明治44年4月17日)
制作(デザイン)

  • 狩野探幽
  • 左甚五郎(左右・昇降の龍)

上野東照宮の唐門は、正式名で「唐破風造・四脚門」と呼称します。

つまりは、四脚門(よつあしもん)に唐破風の屋根が乗ったと言う解釈です。

東照宮に見ることのできる唐破風はどれも特徴的で、江戸時代の徳川家の権威と威容をよく表しています。

裏側から見た唐門の様子

唐門を裏側から見れば下掲写真のような2匹の龍が透かし彫りであしらわれていることが分かりますが、なにぶん唐門の裏側へ行くためには特別拝観料金が必要になり申す。

特別拝観金を納めれば、唐門の裏側を見られるだけでなく、本殿を間近で見学できたり、本殿を取り囲む透き塀を見たり、はたまた栄誉権現社へも参拝できまする。

唐門に棲みつく「水をガブ飲みする”4匹の龍”」

この唐門の四脚の柱の脇には世界的に有名な人物の彫り物があります。

それが「昇り龍(のぼりりゅう)」と「降り龍(くだりりゅう)」と呼称される「2匹の龍」であり、門の表側と裏側の合計「4匹の龍」の彫刻があります。

これらの龍を彫った彫師こそ、「眠り猫」で有名な「左甚五郎(ひだりじんごろう)だと云われています。

左甚五郎の作品は、あまりの出来栄えから「作品に魂が宿る」とされ、夜な夜な完成した作品が動き回ると言われ、江戸中で噂が立つほどでした。

それはこの4匹の龍にも言えたことで、なんでも夜な夜なこの柱を抜け出し、近くにある「不忍池(しのばすいけ)」へ水を飲みに行くのだそうです。

そんなことから、これらの龍は別名で「水呑み龍」とも呼称されています。

昇り龍」「降り龍」の意味・由来

「昇り龍」「降り龍」意味や由来についてはいくつかの説があります。

仏教の教えでは、「昇り龍」は、悟りを求めて天に上る龍、「降り龍」は修行を終え、如意宝珠を手にし、地上の守護神として降りてくる龍だとされています。

また、「昇り龍」は、中国の「登竜門」の故事になぞらえ、鯉が滝を上り龍神になる姿を現しており、立身出世や心願成就の象徴であるとされることもあります。

更に、風水の考え方によると、「昇り龍」は昇る朝日、「降り龍」は「気」が吹き出す「龍脈(気脈)」を意味するとも言われています。

ところで、「昇り龍」と「降り龍」は対にして描かれますが、どちらが昇りでどちらが降りか、わかりにくいことも多いのですが、上野東照宮では、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉にもあるように、偉大な人ほど謙虚になり頭を垂れるということから、頭が下を向いている方が「昇り龍」だとしています。

唐門表側の昇り龍

唐門表側の降り龍

唐門裏側の昇り龍

唐門裏側の降り龍

 

上野東照宮「透塀」【重要文化財】

 

創建年

  • 1627年(寛永4年/江戸時代前期)
再建年

  • 1651年(慶安4年/江戸時代前期)
屋根の造り

  • 銅瓦葺
総長

  • 約175m
重要文化財指定年月日

  • 1911年4月17日(明治44年4月17日)
制作(デザイン)

  • 狩野探幽

「透塀」は「スケベ」と読み・・イヤイヤ、「すきべい」!と読みます。

名前の由来は、ひし形の格子の向こう側が透けて見えることにあります。

透塀の総長は175mあり、「本殿・幣殿・拝殿」を囲む形で守護する玉垣の役割を担っています。

塀の上段には野山の動植物、下段には海や川の生き物の彫刻がほどこされ、その数は外側・内側を合わせて200枚以上に及びます。

これらの彫刻の下絵のデザインは絵師・狩野探幽が描き、別の彫師に彫らせたと思われます。

透塀下段には海鳥や魚、貝の彫刻が見られます。

彫刻の色は造営当初は極彩色だったものがその後の修理時に弁柄漆で上塗りされたと考えられるため、2009年(平成21年)からの修理工事で極彩色に戻されています。

塗り直す色は当時の彫刻や絵を参考に専門家を交えて検討を重ねた上で決定され、絵の具は造営当時と同じ岩絵の具で生彩色(いけざいしき)がほどこされました。

生彩色とは、彫刻に漆を塗り、金箔を押した上から絵の具で色を付け、彫刻をより美しく、立体的に見せる彩色方法です。

本殿前には「御三家」寄進の灯籠【重要文化財】

  • 奉納年:1651年(慶安4年)4月17日
  • 奉納者:尾張、紀伊、水戸の徳川御三家より2基ずつ奉納された灯籠

上野東照宮の境内には所狭しと灯籠が並べられていますが、かつて境内を整理・縮小した際に移動して詰め込まれたものもあるため、並んでいる順番にはほとんど意味は無いようです。

ただ、本殿前の左右に3基ずつ、計6基ある同灯籠は別格です。

これらは1651年(慶安4年)に、家康公の三十六回忌を記念し、紀伊・水戸・尾張の徳川御三家から2基ずつ寄進されたものなのです。

灯籠の奉納者は、内側(唐門に近い位置)から順に、以下のようになっています。

  • 紀伊・従二位大納言「徳川頼宜」(家康公の十男)
  • 水戸・正三位権中納言「徳川頼房」(家康公の十一男)
  • 尾張・従三位兼右近衛権中将「徳川光義」(家康公の孫・家康公九男義直の子)

御三家の中には「序列」という概念が存在し、これに倣えば「尾張・紀伊・水戸」となるのが本来の在り方。

さらに兄弟を順に並べたとしても、九男「義直」が興した尾張家が、もっとも唐門側に配置されるハズ。(唐門の位置が中心と考えるため。戦隊モノでもレッドが主人公のようなもので常に中央)

この理由は奉納する前年に義直公が他界してしまったため、急遽、息子の光義(のちの光友)が家督を継いだのですが、まだまだ他の2家の当主に比べて官位が低く、つまりは御三家の中では新参として扱われたからなのです。

ゆえに唐門からもっとも遠い場所に配置されることになっているでゴザるよ。….なんで急に剣心や

よく見ると・・銅燈籠のデザインが1つ1つ違う??

銅燈籠をよく見れば分かり申すが、上野東照宮の銅燈籠はそれぞれデザインが異なってい申す。

パっ!と見ただけでも、燈籠の頭頂に宝珠が乗っているものと乗っていないものがあることに気づきますが、それ以外にも、笠、火袋、基壇など、ぞれぞれに違った彫刻がほどこされてい申す。

参拝された暁には、ぜひ見比べてみてくださいな。

御三家の灯籠の笠の装飾は「蜃」

上述の御三家奉納の灯籠の笠の縁の部分には、他の灯籠にはない装飾があります。

舌の長い龍のような動物の頭で、これは想像上の動物「蜃(しん)」です。

蜃は、口から気を吐いて蜃気楼をつくると言われています。

それ以外にも、天女や龍など、精巧で美しい彫刻を見ることができます。

上野東照宮「銅燈籠」【重要文化財】

造立年

  • 1651年(慶安4年) 他
奉納者

  • 日本各地の諸大名

上野東照宮の境内入ると、燈籠の数が異様に多いことに気づきますが、銅製の燈籠が48基に石製の灯籠が約200基も並んでいます。

この中でも重要文化財に指定されているのが「銅燈籠」です。

銅灯籠のほとんど、そして石灯籠の多くは、3代将軍・徳川家光が社殿を建て替えた際に奉納されたものです。(東照宮社殿の落慶日である慶安4年4月17日)

これらの燈籠は1つ1つ奉納された人物が異なり、大半が江戸時代の大名による寄進です。

実際に灯籠の竿の部分を見れば分かりますが、奉納者として大名の名前が刻まれていまする。

銅灯籠を奉献した大名の名前一覧(以下25名)
◉御三家

徳川頼宣(紀州)
徳川頼房(水戸)
徳川光義(尾州/尾張)

◉東北

佐竹義隆(出羽)
上杉実勝(奥州)
伊達忠宗(仙台)
保科正之(会津)

◉北陸

松平光長(越後)
前田利家(加賀)
松平光通(越前)

◉近畿

井伊直孝(近江)
藤堂高次(伊勢)
森長継(美作)

◉四国

松平忠義(土佐)
蜂須賀忠英(阿波)

◉中国

池田光仲(因州)
池田光政(備前)
浅野光晟(芸州/安芸広島)
松平民部大輔(防長二州)
松平直政(出雲)

◉九州

細川六麿(肥後)
黒田忠之(筑前)
島津光久(薩摩)
有馬忠頼(築後)
鍋島勝茂(肥前)

灯籠とは?

そもそも燈籠とは、寺院において仏像を照らしたり、法要を執り行う際の周囲の浄化や、神社では神事においての「穢れ」や「邪気」を祓う目的も含めて火を灯すものです。

こんなにも多くの灯籠があれば、穢れも邪気も尻尾を巻いて退散しそうな気はせんでもなぅぃ。ワッハ

有料エリアの特別拝観にて見学できる見どころ一覧

栄誉権現社(境内社)

この栄誉権現社は四国八百八狸の総帥にて、江戸城大奥に奉献されるに至るほどの力を持つ狸神です。

当初は大奥にて安置されていたのですが、大奥にて大暴れしたために大奥を追放されることになり申す。

その大暴れは止むことなく、江戸中を荒らし回った後、この上野東照宮へ移されることになるのですが、途端に悪さをしなくなり、むしろ、人々にご利益という幸せを分け与えてくれています。

栄誉権現については下記ページをご覧くだすわぁぃ

大楠

  • 樹齢:推定600年以上
  • 幹の太さ(直径):約6メートル

樹齢600年以上を経た上野の祖木といわれている御神木です。 幹の太さは8m以上で上野公園一の大きさを誇りまする。オホ




誰でも見られる境内見どころ一覧

狛犬(高麗狗)

吽形の狛犬像

⬆️御本殿を向かい見て左側の狛犬像(吽形)….口空いとるし阿像に見えんこともないが…。

  • 奉納年:1914年(大正3年)
  • 南側:(社殿向かって左)吽形(閉口)
  • 北側:(社殿向かって右)阿形(開口)
  • 狛犬自体の大きさ:高さ115㎝、前後120㎝、幅60㎝
阿形の狛犬像

⬆️御本殿を向かい見て右側の狛犬像(阿形)

狛犬は江戸三大石工の1人として知られた「酒井八右衛門」が寄進した狛犬になりまする。

いずれも狛犬も肩部分?‥‥がモコモコと盛り上がり、実に筋骨隆々とした像容をしてい‥‥申す。

狛犬の台座に見える文字は隷書(れいしょ/漢字の書体のこと)を得意とした書家「中根半湖」の書です。

当時の社司(現在の宮司に相当)は子爵であった松平頼安ですが、同氏は三島由紀夫の曾祖母の兄あたる人物であり、三島の著作「神官」など作品にも登場してい申す。

上野東照宮の狛犬の特徴

上野東照宮の狛犬も他所の神社やお寺で見かけるように、左右それぞれの狛犬像で造形が異なっています。

左右一対で奉納されたもので、右が口を開けた阿形、左が口を閉じた吽形の狛犬像です。

阿は口を開いて最初に発する音、吽は口を閉じて出す最後の音でもありまする。

それゆえ、この阿吽を以って宇宙の始まりと終わりを意味するとも云われ、ほかにお寺の山門に安置される仁王像も阿吽一対で造立されるなど、何かと神仏を守護する像には阿吽が多く見られまする。

狛犬についての詳細は下記ページにて詳しく述べてい‥申す。

神楽殿

  • 奉納年:1847年(明治7年)4月
  • 奉納者:橋本富八・尾崎善六の他、有志一同

上野東照宮の四半敷きの参道を進むと、やがて五重塔が見えてくるのですが、その足元あたりに古めかしい舞台付きの建物が見えてきます。

この建造物こそが神楽殿(かぐらでん)と呼ばれるものです。

この神楽殿では神楽はじめ、定期的に邦楽演奏(コンサート/リサイタル)の場としても活用されてい‥‥‥申す。

上野東照宮の神楽殿についての詳細は下記ページをご覧ください。

大鈴

  • 奉納年:明治7年 甲戌年 6月
  • 願主:石屋八右衛門(駒込肴町)

狛犬の石工として江戸では知られた「酒井八右衛門」が寄進したクソでかい鈴になりまする。

酒井八右衛門は別名で「井亀泉(せいきせん)」とも呼ばれ、江戸三大石匠の1人であり、江戸時代から明治時代初頭まで4代に渡って多くの石造物を残してい‥申す。

調べによれば、鳥居や狛犬などには「酒井八右衛門」と刻銘を残し、墓碑や顕彰碑には「井亀泉」の銘を刻んでい‥‥申す。

この鈴の来歴は不詳とされてい申すが、昭和30年頃、珍品であるため、なるべく大勢の参拝客に楽しんでいただこうと、この水屋に吊られてい‥‥申す。

井亀泉の他の作品

調べると、どうやらこの井亀泉つまり、酒井八右衛門は他にも作品とも呼べる奉納した珍品を残しており、例えば、埼玉県立児玉白楊高校の校祖「木村九蔵の碑」を残しています。碑文の最後には「井亀泉 刻」の文字が見えるとな。

 

⬆️大鈴左端に「明治七年 戌年」「六月」「○○八右衛門」などの刻銘が見える

大鈴の下の手水鉢(水盤)

この手水鉢は後述していまするが、「水舎門」と往時はセットになって使用されていたものでゴンす。

すなわち、大鈴が吊るされている覆屋(おおいや)とは、元来、セットではないということです。

ちょぃとこの手水鉢の側面をご覧くださせぇ。

下記のような刻銘が見えやせんかぃ?

右端:『従四位下阿部対馬守藤原朝臣重次

中央:『奉献 石○手水○

左端:『慶安四年猛春吉辰

「孟春」とは、春の初め頃という意味です。時期的には3月になるでしょうか。

「吉辰」は吉日。

これらをまとめると慶安4年3月の吉日に阿部(対馬守)重次が奉納した手水鉢であることが分かり申す。

阿部重次は武蔵岩槻藩2代藩主。家光さん付きの老中としての顔の方が有名でゴンす。

手水鉢に使用されている石の種類は「小松石」。

小松石は数ある石の中でも最上級クラスの石コロころころドコいった‥‥なので、偉人の暮石などにも使用されまする。

小松石は風化作用への耐性があり、加工には難儀するのですが、完成した後はモチが良く、ほぼ半永久的に姿を留めます。

このような小松石の手水鉢が奉納されている事実を鑑みても、東照宮の崇敬の度合いとともに徳川家の権威というものがヒシヒシと感じられ‥‥申す。

上野東照宮の五重塔

上野東照宮には五重塔がありま‥‥すと言いたいのですが、厳密は上野東照宮の所有ではなく、官有(東京都)になるのですが、境内および参道沿いから、その威容感ただよう姿を見ることができまする。

もちろん、上野東照宮の大きな見どころであり、上野東照宮というよりは上野公園のシンボルでもありまする。

残念ながらこの五重塔は官有であることから、現在、同じ官有地である上野動物園の園内にて管理されていまする。

上野東照宮の五重塔については下記ページをご覧くだすわぁぃ

水舎門

  • 造営年:1651年
  • 移築年(現在地):昭和39年

上野東照宮の石鳥居をくぐって四半敷きの敷石が敷かれた参道を進むと、やがて目前に門が見えてきます。

この門、本当に門なのかという外観をしてい申す。

脚が4本に、わずかに屋根に向けて内側へ寄せる形で造られていまする。

実はこれ、門ではないんです。

何か分かりますかぃ?

ちょぃと考えてみておくんあせぇ。ハぁ、ふぅ。

‥‥‥

‥‥‥

‥‥はい。残念無念〜!

正解は、『手水舎』!

では、手水鉢はドコに行ってん?‥‥てな疑問が生じますが、手水鉢は上述したように、この水舎門をくぐり抜けて、もう少し歩いた先の右側に見えてくる大鈴の下の手水鉢(水盤)でガンす。

上野東照宮へ参拝された折には、ぜひ、この門をじっくりクリリン気円斬っ!‥‥‥てなほどにジっク〜リと凝視してご覧くだせぇ。はぁ、ふぅ

⬆️沓巻。六葉のような乳鋲ような装飾が散らされている。

⬆️叩き出した徳川紋(三つ葉葵)が見える

この水舎門は、1651年の寛永の大改修工事の折、老中・阿部重次が社殿前に水舎として奉納したものです。

以来、水舎として使用されていたようですが、昭和39年に現在地へ移築し、現在見られるような門として用いられてい‥‥申す。

上野東照宮「表参道大石鳥居(石造明神鳥居)」

創建年

  • 1633年(寛永10年/江戸時代前期)
大きさ

  • 高さ:約5m
重要文化財指定年月日

  • 1942年12月22日(昭和17年12月22日)
発願者(奉納)

  • 酒井忠世(上州厩橋藩主)

上野東照宮へ訪れると境内への入口に立ちはばかる「石でできたクソ大きな鳥居」が眼前に現れます。

これが上野東照宮の門である「表参道大石鳥居(石造明神鳥居)」です。

一見すると普通の石の鳥居ですが、1633年(寛永10年)の造立と伝えられており、江戸時代に造立された貴重な年代モノの鳥居で、備前の御影石(花崗岩(かこうがん))が使用されています。

造立年を示す証拠として柱に『寛永十年四月十七日酒井忠世の寄進銘及び享保十九年十二月十七日』と言う文字が彫られています。

この文字を要約すると次のようになり申す。

『1633年(寛永10年)に酒井忠世の発願により造営されたが、その後、廃れて倒壊し埋っていた』

『それを酒井忠世の七世代後の孫の酒井忠知が見つけて掘り出し』

『当初、建っていた当地に再興した』

1923年(大正12年)の関東大震災の揺れでも傾かず、その工事の頑丈さは、当時、非常に驚かれたと云われます。

不忍口の石鳥居

  • 奉納年:1873年(明治6年)
  • 石材:御影石
  • 明神型石鳥居
歴史

江戸城内の紅葉山東照宮より移築された石鳥居でゴンす。




上野東照宮で四季の花を愛でる!

上野東照宮には、ぼたん苑が境内入口にあることや、境内参道の両脇に桜(ソメイヨシノ)が植樹されていたり、境外とはなりますが、参道の鳥居の目の前には珍しい「紫陽花」も植栽されてい‥申す。

境内はけっして広いとはいえないのですが、何かと四季折々の草木花を楽しめるようになってい‥申す。

上野東照宮の参道両脇の桜

例年、3月下旬から4月初旬頃になると、上野東照宮の四半敷きの参道の両脇に植樹された桜(ソメイヨシノ)たちが、一斉に咲き誇りまする。

この下で手酌で一献いけば最高でしょうなぁ。ワッハ。

しかし残念ながら上野東照宮の参道では、参道だけに賛同いたしかねる!‥‥ということで花見は禁止でゴザる。

上野東照宮の桜の見頃時期については下記ページをご覧くだすわぁぃ

ぼたん苑の一般公開

上野東照宮境内には「ぼたん苑」があり申す。

上野東照宮では毎年、春にはボタン、初秋にはダリア、真冬には冬ボタンと年3回、ぼたん苑を一般公開してい‥‥‥申す。

春の公開時は冬牡丹や桜(河津桜)、その他、東京ではあまり見かけることができない季節の草花樹木が見られまする。

牡丹には二期咲き(早春と初冬)の性質をもつ品種があり、冬咲の牡丹は「寒牡丹」と云われます。

通例であれば、植物は冬になると花を枯らし、また翌年のために体力を温存するのですが、寒牡丹はその冬に咲くこともあって、花弁を付ける確率がわずか2割以下と云われます。

寒牡丹は、かつては幻の花とも云われるほど、珍種の花でしたが、現在では栽培方法や科学の進歩により、真冬にも牡丹が見られるようになってい‥‥申す。

上野東照宮のぼたん苑についての詳細は下記ページをご覧くだすわぁぃ

ダリアの一般公開

初秋になれば、今度はダリアが、ぼたん苑にて一般公開され申す。

ダリア展の詳細は下記ページをご覧くだすわぁぃ

上野東照宮(上野公園)鳥居前のアジサイ(珍種)の花壇

上野東照宮には牡丹園がある影響なのか、表門となる鳥居前の園路沿いには上野公園内で見られる他の紫陽花とは少し異なる品種の紫陽花たちが植栽されてい‥‥‥申す。

テマリテマリ

静岡県掛川市原里加茂花菖蒲園、作出のアジサイ。

おはよう

上にならえで、この「おはよぅ」も静岡県掛川市原里加茂花菖蒲園、作出のアジサイ。写真のは青色をしているが、ピチピチとした娘っ子を彷彿とさせるピンク色♡もある。

霊峰の雪

なぞが多いアジサイ。あまり見かけることのない品種。たしか山アジサイで有名な光則寺(鎌倉)で見かけたかな?そういう意味合いでは幻に近い?

なお、このアジサイは位置付け的には「山あじさい」である。

雲居鶴(くもいずる)

静岡県伊豆南部産のガクアジサイ大型の品種。古くから日本に自生するアジサイ。

伊豆の華

伊豆半島(静岡県伊東市八幡野)で発見されたガクアジサイの一種。

八丈千鳥

2006年に八丈島で自生のものが発見された比較的、新しいアジサイ。

四季咲き紫陽花

上野公園の紫陽花の見頃時期や見られる場所や種類については下記ページをご覧くだすわぁぉ

上野東照宮境内の石碑一覧

歌碑(尾藤三柳碑)

碑文

『乱世を酌む 友あまたあり 酌まむ』

刻銘

尾藤三柳1929年生まれ
川柳活動50年を記念して全国の有志門下、之を建つ 平成9年5月3日 

歌碑(松崎鉄之介碑)

碑文『富貴には 遠し年々 牡丹見る   鉄之介』

鉄之介とは、昭和期の著名な俳人である「大野林火」門下の「松崎鉄之介」のこと。俳人協会賞受賞。

歌碑(村田周魚碑)

  • 碑文:『盃を 挙げて天下は まわりもち』 作:村田周魚

村田周魚は大正時代から昭和初期にかけての川柳作家。

「井上剣花坊(けんかぼう)」の「柳樽寺(りゅうそんじ)川柳会同人」の講員。

「川柳きやり」を創刊し、戦時下でも社報の形を採り、発行を続けた。享年77歳。

重建石燈籠碑記

 

この石碑は幕末の動乱を刻み記したもの。

石碑の内容

漢字の羅列により読みにくいのだが、おおむね下記のような内容になる。

現在の大阪市北区天満(造幣局の場所)には西国への睨みを効かせる目的で川崎東照宮が造営され、その別当寺として「建国寺」が建立される。

しかし慶応4年(1868年)に幕府軍と薩摩・長州の間による鳥羽・伏見の戦いが勃発し、結果、川崎東照宮・建国寺は廃絶。

その動乱の折、有志たちが境内にあった石灯籠100基のうち25基を上野東照宮へ運び出し、その石燈籠が現在この石碑の周囲に残されている。

その経緯が刻み記されている。

石燈籠

前述したとおり、上掲写真に見える石灯籠は全部で280基ある。

そのうち25基はかつて大阪建国寺にあったもの。

上野東照宮の楽しみ方

御朱印をいただく!御朱印帳を買う!

上野東照宮では限定御朱印を含み、6種類以上の御朱印を授与されています。

御朱印帳や御朱印帳袋もありまする。

お守りをいただく!

上野東照宮には、多種類のお守りの取り扱いがあります。その数あるお守りの中でも、特に有名なお守りを以下でご紹介します。

昇龍守

昇龍(のぼりりゅう)守は、ご利益があるとして受験生を中心に上野東照宮の数あるお守りの中でも特に人気のあるお守りです。

徳川家康公の月命日である毎月17日限定でのみに授与されていることも話題の要因となっているのでしょう。

数々の戦に勝利し征夷大将軍まで上り詰めた御祭神の強さと活躍、上野戦争・関東大震災・戦中の空襲の難を運よく逃れた上野東照宮の運の強さにあやかり、強運、勝利、出世が祈願されています。

勝負事を控えた方には、特におすすめのお守りです。

ダリア優雅守

このお守りは上野東照宮で新しく企画され祈願されたお守りになります。
ダリア展(ぼたん苑)の期間限定のお守りとなりますので、貴重なお守りとなります。
遠方にお住まいの方なら、ダリア展に合わせて訪れたいところです。

  • ダリア優雅守のご利益:ダリアの花言葉である「優雅に美しくなれる」お守りです。
  • ダリア優雅守の値段:500円 →600円

他抜守

このお守りはテレビでも紹介されて話題になり、即完売したほどの人気のお守りです。
タヌキのデザインが施されています。
「タヌキ」と「他抜き」の語呂を合わせたお守りです。
このお守りも上野東照宮を代表するお守りです。

  • 他抜守授与のご利益:受験・就職・出世
  • 他抜守授与の値段:500円 →600円

忍者守

このお守りは忍者らしく「手裏剣」の形をしたお守りです。
このように手裏剣の形状をしたお守りを授与されている神社は非常に珍しいです。
そう言えば・・徳川家康を京都から岡崎城へと逃がすのに一役買った忍者がいます。
その忍者の名前を「服部半蔵(はっとりはんぞう)」と言います。

「服部半蔵」は、最強の忍者として脚色され様々な映画・ドラマに登場し、アニメ・忍者ハットリ君のモデルにもなっています。
そんな服部半蔵に因んだお守りとも言えます。

  • 忍者守のご利益:交通安全・開運・厄災消除
  • 忍者守の値段:500円 →600円

【番外】家康公御遺訓

「家康公御遺訓」は、お守りではありませんが家康公直筆の遺訓(語録)の写しです。
家康公の代表的な遺訓として「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し」があります。
重荷を背負って遠き道を歩めば、それだけで願いが叶うと言うことでしょうか。

  • 家康公御遺訓の値段:500円

お守りについての詳細は下記ページをご覧くだすわぁぃ




おみくじを引く!

上野東照宮には種類は少ないのですが、おみくじが置かれてい申す。

上掲写真のおみくじは「こどもおみくじ」。

全国津々浦々の神社仏閣で見かけるデザインのおみくじですが、上野東照宮で引くおみくじは、一味変わりまする。

そして、引いた結果は‥‥‥『末吉』!

幸先の良いスタートが切れ申した!イヨっ!ホっ!ハっ!キョっ!ん〜‥‥‥。….なにがしたぃねん

花見時期には屋台でグルメというグルメをクソ腹へシコ流し!

上野公園の桜が開花する時期には、恒例の花見の席取りの話題が浮上します。

上野東照宮でもこの花見の時期に合わせて、参道にたくさんの屋台が出現し‥‥申す。

春先に上野東照宮へ参拝に訪れると、クソ腹を痛めつけて反省させるほど、グルメをクソな胃袋めがけてシコ流しでき申す。

上野東照宮ひいては上野公園全体の屋台についての詳細は下記ページにて!

鳥居の足元にある東照宮売店でグルメ&ランチをシコ流し!

上野東照宮の境内入口にある売店では、「名物もんじゃまん」や「肉まん・あんまん」、うどん&そば、親子丼などの丼モノ、カレーそうめん、冷やし中華、焼きそば、おでん、らーめん、甘酒、ビール、ドリンク、アイスクリーム&かき氷など、グルメやランチを提供する老舗レベルの売店があり申す。

『腹が減っては戦は出来ぬ』

‥‥という言葉もあるように参拝という戦前にでも腹ごしらえはいかがですかぃ?

もしくは参拝という戦が終わったあとにでも、参拝という戦で付いた傷口を癒すために立ち寄るのも構いやせん。”参拝という戦”無意味に連発すな!‥‥なんかあんのか?

訪れた際は、一度、顔を出しておくんなせぇ。

当店の名物は「東照宮名物・”もんじゃまん”」と、「カレーを使った多彩な料理」でゴンす。

もんじゃまんは、中に東京名物の「もんじゃ」が、これでもかぃ!‥‥ちゅ〜ぐらいにブチ込まれてい‥申す。

ぜひ、一度、ご賞味アレ!

 

上野東照宮でのイベント行事で楽しむ!

うえの華灯路 浮世絵行燈(うえのはなとうろうきよえあんどん)

うえの華燈路浮世絵行燈とは、平成19年より台東区観光課の主導により企画されたイベント行事でゴンす。

歌川広重の「名所江戸百景」を用いた浮世絵行燈を、上野東照宮の参道のみならず、上野公園内の大噴水広場から袴腰広場にかけて設置します。

中には高さ1mを超える大型行燈もシンボルとして設置され、例年の大きな見どころとなってい‥‥申す。

夜の江戸の風情が創出された、”江戸な空間”にスッカリかりかりカリカリ梅 酸っぱ!‥‥てなほどスッカリと、お出かけてしてみたくなっちまったのではなぃですかぃ?

⬆️令和3年度は緊急事態宣言のため途中で中止になってしまった!ウぇ〜ん涙洪水グガガガっ

開催期間や点灯時間など
  • 開催期間;例年10月中旬頃〜2月下旬頃まで
  • 灯籠の点灯開始時間;日暮れ〜21時30分まで

上野東照宮の拝観料金・見学所要時間・営業時間(開門・閉門時間)

こちらのページでご紹介する料金・割引制度などは変更になっている場合がありますので、最新情報は公式ホームページなどでご確認ください。

拝観料金

境内基本無料

スケベ(透塀)の内側は特別拝観になりますので、入る時にのみ下記の入場料金とスケベ心が発生し‥‥‥あれ?あイヤイヤイヤ。入場料金が発生します!オホ …ふぅ

  • 大人(中学生以上):500円
  • 小学生:200円
  • 団体(20名以上):400円
  • 「ぼたん苑」との共通券:1100円(ぼたん苑開苑時期のみ)

上野東照宮の見学所要時間

上野東照宮の境内のみであれば、透塀の中まで拝観しても30分くらいあれば1周できます。

ボタン苑まで見る場合は、更に15分前後は必要です。

灯籠の装飾や唐門の素晴らしい彫刻の数々をじっくり見たい方は、それに必要な時間もプラスして計画を立ててくださいね!

上野東照宮の営業時間(開門・閉門時間)

  • 冬季(10月~2月):9時から16時30分まで
  • 夏季(3月~9月):9時から17時30分まで
唐門(透塀)の内側への拝観可能時間

  • 冬季(10月~2月):9時から16時00分まで
  • 夏季(3月~9月):9時から17時00分まで
    ※季節・天候により変更あり
定休日

  • なし(年中無休)

各線 上野駅・東京メトロ千代田線・根津駅から上野東照宮へのアクセス(行き方)

下記ページにて詳しくご紹介していまする。

上野東照宮へのお問い合わせ先「住所・電話番号・定休日」

  • 住所:東京都台東区上野公園9-88
  • TEL:03-3822-3455(社務所)
  • TEL:03-3822-3575(ぼたん苑)
  • 定休日:年中無休

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