【学問成就・合格祈願】湯島聖堂の歴史(由来)・ご利益・見どころ・アクセス情報など

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【学問成就・合格祈願】湯島聖堂の歴史(由来)・ご利益・見どころ・アクセス情報など

徳川綱吉によって建てられた”孔子廟”である「湯島聖堂」についてまとめました。

学校とも神社ともいわれる湯島聖堂には、長い歴史があります。

神社?寺?お墓?「湯島聖堂と湯島天神の違いは?」

湯島聖堂と湯島天神との違いをご存知でしょうか?

湯島天神は、上野御徒町駅から徒歩5分くらいのところにあります。

湯島聖堂は御茶ノ水にあり、聖橋を渡った右手に広がる森林地帯に広がるところにあり、日本の「学校教育発祥の地」と言われています。

湯島聖堂は元禄時代に5代将軍の徳川綱吉によって建てられました。

もともとは、孔子を祀る場所であり、儒教の学問所であった場所です。

したがって、神道の神社でも、仏教の寺院でもありません。また、墓でもありません。

ただ、その歴史・由来から学問成就のご利益があるということで、湯島天神とともに、合格祈願で多くの受験生が訪れています。

湯島聖堂の入場料・公開時間・休館日

  • 入場料:無料

大正殿の内見をしたい場合は、200円の聖堂維持費をお納めください。

公開は土、日曜日、祝日のみです。

  • 公開時間:午前9時半~午後5時まで(冬季は4時まで)
  • 休館日:夏季休業 8月13~17日の5日間
        年末休業 12月29~31日の3日間

(※大成殿は土日祝日と正月のみ公開)

湯島聖堂の案内図(マップ)

湯島聖堂の全体図です。

この地図をある程度頭に入れてからまわると効率的に見落としなくまわることができます。

敷地内にはところどころにこのような目印があります。

この印を目印にまわれば迷うことも少なくなります。

湯島聖堂「大成殿」の歴史・見どころなど

大正殿は湯島聖堂の中心的な建物で、寺院で言うと本堂のような存在です。

土、日曜、祝日のみ大成殿は公開され、見学可能です。 (午前10時~閉門時間まで)

大正殿の設計者

  • 造立年:昭和10年
  • 設計者:伊東 忠太

「大成殿」の歴史(由来)

江戸時代

湯島聖堂誕生以前、江戸の孔子廟と言えば、林羅山によって上野忍が岡(うえのしのぶがおか・現在の上野恩賜公園)に建てられた、忍岡聖堂「先聖殿」でした。

この地には孔子廟と講堂が建ち、信仰と学問の場として賑わっていました。

その孔子廟を移転したものが、現在の湯島聖堂「大成殿」の始まりです。

上野・寛永寺付近にあった学問所を移転させることで、儒学と仏教を分離すること、それまで儒学を独占していた林家への幕府の支配力を強めることなどが、移転の主な目的だったと考えられています。

また、上野の学問所の周辺が盛り場となり、学問にふさわしい環境でなくなったことも、理由の1つとされています。

そこで移転先に選ばれたのが、神田湯島であり、1690年(元禄3年)に、五代将軍・徳川綱吉の発意でこの地に造立されたのが、「大成殿」でした。

また、孔子廟の移転に合わせて、林家の学問所も移転しました。

大成殿の建物は、最初は朱塗りで青と緑に色付けされていたそうです。

その後度重なる火災により焼失してしまい、さらには幕府の実学重視への方向転換の影響を受けて立て直しが出来ずに荒廃してしまいますが、寛政の改革の一環としての教育政策「寛政異学の禁」により、聖堂の役割が見直されました。

「寛政異学の禁」は、儒学(朱子学)を「正学」とし、その他の学問は「異学」として講義や研究を禁じるものでした。

この政策の中で、1797年(寛政9年)には、林家の私塾だった学問所が、幕府直轄の官学校「昌平坂学問所(昌平黌・しょうへいこう)」となりました。

「昌平」とは、孔子が生まれた村の名前で、昌平坂学問所は、「孔子の説や儒学を教える学校」という意味で名付けられました。

それがそのまま。この地の地名にもなったとも言われています。

大成殿の造営当初は、大成殿と周辺の建物を合わせて「聖堂」と呼ばれていましたが、この頃からは、湯島聖堂の中で大成殿のみを指して「聖堂」と呼ぶようになりました。

2年後の1799年(寛政11年)には、湯島聖堂の大改築が完成し、敷地面積は、12,000坪から1.33倍の16,000坪余りとなります。
※12,000坪は約39,700㎡で、阪神甲子園球場の敷地面積とほぼ同じです。

大成殿の建物も、かつて徳川光圀が明の儒学者・朱舜水(しゅすんすい)を招いて建てた水戸の孔子廟に倣って、創建時の約2.5倍の規模の黒い建物に改められました。

こうして、幕府のバックアップの下、湯島聖堂は栄えていったのです。

昌平坂学問所とは?

幕府や諸藩は、武士という支配者階級に対し、儒学(じゅがく)の知識と教養を身に付けさせることで、儒学が社会の主要な要素としている「士・農・工・商」という身分的秩序を維持しようとしました。

その学習施設として幕府が設置したのが昌平坂学問所であり、諸藩が設けたのが、長州藩の明倫館、水戸藩の弘道館などの「藩校(はんこう)」です。

18世紀以降、藩政改革における人材育成という観点から、ほとんどの藩に藩校が設置されました。

武家に生まれた子弟の多くはこれらの学校に通い、儒学を学ためにどうしても必要な漢学の基礎を学びました。

その際、教科書として使用されたのが『論語』や『大学』など、四書五経(ししょごきょう)と呼ばれる儒学の基本的な教えが記された書物でした。

既に少々触れましたが、昌平坂学問所は、もともと儒学者として徳川将軍家に仕えた林羅山(はやしらざん)を祖とした、林家の家塾(かじゅく)でしたが、寛政の改革により、官学校となりました。

それからというもの、幕府は、昌平坂学問所の他にも、医学や和学、洋学を教える学校をどんどん開校し、幕臣だけでなく、全国から集まった藩士たちも、これらの学校で学ぶことが出来るような教育体制を作り上げていきました。

明治時代・大正時代

江戸幕府の教育機関だった昌平坂学問所は1871年(明治4年)に閉鎖されましたが、この地に創設された東京師範学校(現在の筑波大学)や東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)の源になりました。

明治時代以降、湯島聖堂の構内には、文部省と博物館、大学などの教育関連施設が混在していました。

また、日本で初めての博覧会、「湯島聖堂博覧会」(文部省博物局主催)が1872年(明治5年)3月10日から、大成殿にて開催され(後述)、これが東京国立博物館の創始となりました。

後に、文部省は霞が関へ、国立博物館は上野へ、東京師範学校・東京女子師範学校は文京区大塚へ、それぞれ移転します。

このように、現在につながる文化・教育発展の礎を築いた湯島聖堂でしたが、1922年(大正11年)には、敷地が国の史跡に指定されるものの、翌年の1923年(大正12年)の関東大震災によって、入徳門と水屋以外のすべての建物が焼失してしまいます。

関東大震災からの復興

現在、昌平坂学問所の跡地の大部分は、現在は東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっています。

関東大震災での倒壊後、大成殿は伊東忠太設計によって大林組施工により、1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造で再建されました。

これは、寛政年間の旧制をもとに設計されたと言われています。

湯島聖堂構内に飾られている世界最大の孔子像は、1975年(昭和50年)に中華民国台北のライオンズクラブから寄贈されています。

また孔子像の他にも孔子の高弟四賢像(顔子-顔回、曾子、思子-子思、孟子)が安置されています。

ちなみに、大成殿の扁額の文字は徳川綱吉、杏壇・入徳・仰高の諸門は持明院基軸の筆です。


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「大成殿」の建築様式・特徴

  • 間口20メートル
  • 奥行14.2メートル
  • 高さ14.6メートル
  • 入母屋造り(いりもやづくり・屋根の上部においては切妻造(長辺側から見て前後2方向に勾配をもつ)、下部においては寄棟造(前後左右四方向へ勾配をもつ)となる構造です。

大成とは、孔子廟の正殿の名称のことを言います。

宋(北宋)の仁宗のときに、『孟子』の以下の一説にちなんで命名されています。

「孔子聖之時者也、孔子之謂集大成・・」

※書き下し文※「孔子は聖の時(とき)なる者なり 孔子は集大成(しゅうたいせい)と謂うべし・・」
※意味※「(過去にも優れた人物はいたが)、孔子は時の聖人であり、集大成のような人だ」

殿内、中央の神龕(厨子)に孔子像が安置されています。

左右には四配として孟子・顔子・曽子・子思の四賢人が祀られています。

「大成殿」の扁額

この文字は、伏見宮博恭王により書かれました(元々は徳川綱吉によって書かれていました)。

博恭王(ひろやすおう 1875-1946

明治~昭和時代前期にかけて活躍した皇族で海軍軍人でもあります。

斯文会の初代の総裁でもありました。

海軍の将校としてドイツの海軍大学校を卒業しました。

日露戦争時には戦艦三笠分隊長として出征するものの、黄海海戦でけがを負ってしまいます。

快復後はイギリスに駐在し、将官に進んだ後、海軍の大学校長や艦隊の司令官、司令長官を歴任し、1922年(大正11年)には大将となります。

東郷平八郎とともに日本海軍の二大長老の地位に立ち、海軍軍令部長も務めました。

「大成殿」内部の見どころ

大正殿を見学するためには200円の見学料を支払います。

この支払がないと、中に入ることはできません。

大成殿入口右側に支払いする場所があるのでそちらでお支払いください。

「大成殿」に祀られているのは誰?

殿内には中央の神龕(しんがん・厨子)に孔子像が安置されてあります。

左右には四配として孟子・顔子・曽子・子思の四賢人が祀られています。

孔子(こうし)

  • 前552年-前479年

孔子は、思想家・哲学者、学者・教育者であり、その教えが儒教として広まり、浸透したことから、「儒家の祖」とも呼ばれています。

孔は姓、名は丘で、仲尼(ちゅうじ)という字(あざな:男子が持った実名以外の名)を名乗りました。

「子」というのは尊称です。父は叔梁紇(しゅくりょうこつ)です。

ちなみに、この孔子の父は魯(ろ)の大臣家の戦士だった人で、孔子誕生時には70歳を超えていたと言われています。

家は非常に貧しかったものの、15歳で学問を志し、特定の師を持たずに勉学に勤しみました。

後に、魯に仕えて国政に携わり、大司寇(だいしこう:刑罰を司る役所の長官)まで進みました。

しかし、やがて権力者と衝突して魯を去り、50代半ばからの14年に渡り、諸国を巡り、魯に戻ってからは、弟子の教育と編著述に専念し、『春秋』を始めとする儒家の経典の数々を著しました。

有名な『論語』は、「仁の徳」による政治を主張した孔子が、弟子たちとのやり取りを納めた言行録とされるものです。

湯島聖堂の大成殿のように、孔子を祀るっているところを孔子廟、または、孔廟、聖廟、文廟などといいます。

また、孔子を祀る祭祀を「釈奠(せきてん)」といいます。

孟子(もうし)

  • 372289

思想家で、孟は姓、名は軻、字は子輿です。

孔子の孫、子思の門人に学びました。

に孔子のように諸国を巡り、王道・儒家の思想を説いて、儒家の伝承者といわれました。

後世、顔回とともに「亜聖(あせい・聖人に次ぐ大賢人)」と仰がれます。

人間の本性を善とする「性善説」を主張した人物です。

「孟子」はその言行と学説を記した書物です。

顔子

  • 513482

孔子の門人であり、「孔門の十哲」の第1人者でもあり、思想家で徳行の人と言われています。

顔は姓、名は回、字は子淵です。

孔子と同じように、貧しい中での学問を好んだ人物で、「論語」に24回登場しています。

曾子(そうし)

  • 505435年?

曾は姓、名は参、字は子輿です。

顔回と同様、孔子の門人であり、思想家で、大変な親孝行の人です。

「宗聖」と称され、顔子同様「論語」の中によく登場し、孔子の思想を伝えるのに最も功績のあった一人でもありました。

「孝経」の著者とされ、「論語」に16回登場しています。

子思(しし)

  • 前492年-前431年

孔子の孫で父は伯魚です。

孔は姓、名は仍、字は子思です。

「子思子」と尊称され、「述聖」とも称されます。

孔子の弟子・曾子に学び、衛に仕えました。

「中庸」の著者とされています。

湯島聖堂のその他の見どころ

湯島聖堂には多くの見どころがあります。

仰高門 -ぎょうこうもん-

  • 造立年:昭和10年(1935年)4月竣工。
  • 設計者:伊東 忠太

仰高門の歴史(由来)

仰高門の仰高とは、「論語」子罕第九「顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅。」によります。

曲阜の孔子廟では、西方にあり、一般見学者用の入り口になる門このことです。

仰高門の建築様式・特徴

  • 鉄筋コンクリート造
  • 平家建の切妻造り

仰高門の扁額について

徳川圀順公爵の筆(元、持明院基輔(藤原基輔)の筆)です。

 

徳川圀順とは

(とくがわくにつぐ 1886年(明治19年)-1969年(昭和44年)

明治から昭和時代前期の華族で公爵で、水戸徳川家第13代当主でもあります。

斯文会第3代会長1940年(昭和15年)~1945年(昭和20年)で、日本赤十字社副社長などを務めました。

陸軍少将として終戦を迎えています。

杏壇門 -きょうだんもん-

  • 造立年:1935年(昭和10年)
  • 設計者:伊東 忠太

杏壇門の歴史(由来)

杏壇とは、山東省曲阜(きょくふ)にある孔子の教授堂(学問を教えるところ)のことを言いました。

かつて孔子が講義を行った教壇の周辺に杏(あんず)の木があったことから、こう呼ばれていると言われています。

1000年代の宋では、大殿(大成殿)を後ろへ移し、教授堂の跡を瓦敷きにして、壇(高台)とし、周囲に杏の木を植えた上で門を構え、杏壇門と名付けられたということです。

杏壇門の建築様式・特徴

  • 間口20メートル
  • 奥行4.7メートル
  • 入母屋造り。

杏壇門の扁額について

徳川家達公の筆(元、持明院基輔(藤原基輔)の筆。)です。

 

入徳門 -にゅうとくもん-

  • 造立年:1704年(宝永元年)
  • 設計者?

入徳門の歴史(由来)

入徳とは、朱熹(しゅき・中国,南宋時代の思想家)の「大学章句序」「子程子曰、大学、孔子之遺書而初学入徳之門也(子程子(していし)曰く、大学は孔氏の遺書にして、初学徳に入るの門なり。」によります。

意味は、以下になります。

「程明道と程伊川のお二人の先生はおっしゃいました。

大学とは、孔子とその門下の遺書のようなものであり、初学者が徳の道に進もうとする時の(登竜)門である。」

 

上野忍ヶ岡の林家の先聖殿創建時にも入徳門があります。

曲阜の孔子廟にはありません。

聖堂内、唯一の木造建造物です。

入徳門の建築様式・特徴

  • 木造
  • 平家建
  • 切妻造り
  • 延面積14.16㎡

入徳門の扁額について

藤原基輔の筆です。

藤原基輔とは

持明院基輔と称します。

持明院家は、藤原道長の子・右大臣頼宗の孫である基頼を祖とします。

家名は、基頼がの邸内の持仏堂を「持明院」と称したのに由来しているということです。

室町時代末、持明院家の基春の時に世尊寺流の書を修め、以降、代々、朝廷に使える家柄となりました。

また、神楽・鷹匠(たかじょう)を家業としていました。

楷樹の由来

楷(かい)は、曲阜にある孔子の墓所に子貢が植えたと伝えられている木です。

その楷は、今日まで植え継がれているそうです。

植物学者・牧野富太郎博士の命名により、「孔子木」の通称でも親しまれています。

楷は、枝や葉が整然としていることから、書道の「楷書」の語源になったとも言われています。

1945年(大正4年)、林学博士・白澤保美氏が曲阜から種を持ち帰ったことで、日本へ渡来したということで、日本国内では、比較的、歴史の浅い種類の木です。

その後も、何人かが種を持ち帰って苗を作り、木に育てました。

花が咲くまでに長い年月を要するため、わが国で種子を得ることはなかなか叶いませんでしたが、近年、やっと、実を見ることができるようになっています。

中国では全土に生育しており、黄連木・黄連茶(おうれんちゃ)、台湾では爛心木(らいしんぼく)の別名も持ちます。

秋の黄葉が美しいといわれています。

孔子銅像

  • 造立年:1975年(昭和50年)
  • 設計者?

孔子銅像の歴史(由来)

中華民国台北市 ライオンズ・クラブからの寄贈によるものです。

11月3日除幕式を挙行しました。

孔子銅像の建築様式・特徴

  • 丈高15呎(4.57メートル)
  • 重量約1.5トン(孔子の銅像は世界最大級です。)

神農廟 -しんのうびょう-

普段は公開されておりません。

写真のように門が閉められています。

門の奥には「神農廟」の案内版が見えます。

  • 造立年:1640年(寛永17年)
  • 設計者:山下宗琢(徳川家光の命による)が建立しました。
作者は、明石清左衛門、藤原真信です。

神農廟の歴史(由来)

1883年(明治16年)、儒学者・漢方医の浅田宗伯(そうはく)が医生の養成のため、温知黌(おんちこう)という学問所を開きました。

その労いの意を込めて浅田家は「神農像」をいただきます。

神農は、中国では「三皇」の一人とされる伝説上の帝王で、人々に初めて農具を与えて農耕を教えたり、薬を与えたり、交易の手ほどきをしたりしたとされ、日本では古くより「医薬の始祖」として、東洋医学者などから尊ばれてきました。

のちに木村博昭が浅田家を継ぐと、像は本郷の木村家に移り、さらに1943年(昭和18年)には、木村家より斯文会に寄贈されました。

同年6月末に、敷地内の東の角に神農廟を移し、このときから毎年、1123日には神農祭を行っています。

神農廟の建築様式・特徴

扉の内側に鏝絵(こてえ・左官が壁を塗る鏝で絵を描いたもの)された土蔵です。

11月23日のみ一般公開ということで、案内版がありました。

【明神門】 -みょうじんもん-

  • 造立年:1935年(昭和10年)4月
  • 設計者:伊東 忠太

明神門の歴史(由来)

1799年(寛政11年)、聖堂と学舎の規模を拡大する時に建てられた門です。

現在も旧中山道沿いに建っています。

「明神門」という名前は、神田神社(神田明神)へ通じる方角にあることにちなんでいます。

明神門の建築様式・特徴

  • 鉄筋コンクリート造
  • 平家建。切妻造り
  • 延面積7.05㎡

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湯島聖堂の文化講座

湯島聖堂では、儒教や漢文に関するものを中心に、色々な生涯学習講座が開かれています。

中には、昌平坂学問所の伝統を継承する、本格的な内容の講座もあります。

講座の内容や開催期間、受講料などはホームページで確認できるほか、事務局の前に置かれている講座の案内を持ち帰り、ゆっくりと検討することもできます。

入会方法(受講方法)

まずは、講座の詳細を、斯文会事務局で配布されている「受講案内」やホームページで確認するか、電話やFAXで問い合わせ、受講したい講座を選びます。

受講の申し込みは、斯文会館でのみ、受け付けています。

湯島聖堂の文化講座に関するお問い合わせ先

主な講座内容

一般講座、芸術・健康講座、親子講座、通信講座などがあります。

一般講座の主な講座

  • 論語素読
  • やさしい論語塾 ~女性のための~
  • 論語を読む
  • 新・論語の味読
  • 大人論語塾 ~論語初心者のための~
  • 新・漢詩作法初級講座
  • 漢詩のイロハ
  • 漢詩作法初級講座(初級)
  • 漢詩作法入門講座(入門)
  • 漢詩作法(中級)
  • 聖社詩会(上級)
  • 漢詩創作(初~上級)
  • 白楽天の詩を読む
  • 漢詩・漢文の名作を読む
  • 日本の漢詩
  • 蘇東坡を読む
  • 金・元詩講読
  • 中国語で読む漢詩
  • 陶淵明の詩文を読む
  • 杜甫の詩を読む
  • 李白の詩を読む
  • 漢詩のあゆみ
  • 唐詩鑑賞
  • 易経入
  • 陰陽五行思想の原理と応用
  • 中国の名言・成語
  • 江戸明治漢学講義
  • 『荘子』を読む
  • 漢文検定講座
芸術・健康講座の主な講座

  • 漢詩文等吟詠(初・中・上級)
  • 中国古典音楽
  • 書道に親しむ
  • 健康太極拳
親子講座
  • 湯島聖堂こども論語塾  杏コース
  • 夏期・春期親子講座  漢字入門  親子で楽しむ論語
  • 中・高生のための論語  「論語素読」と「論語を書く
通信講座

  • 漢詩実作通信講座
  • 中国画通信講座
  • 書道(隷書・楷書)通信講座

などがあります。

受講料(費用)

講座の内容により受講料が変わります。

6,740円~28,170円程度(全約10回のコースが多くあります)です。

受講料の割引・免除

・斯文会賛助会に入会すると割引制度を受けられます。

学生割引(大学生・大学院生対象)となる講座もあります。

湯島聖堂の文化講座に関するお問い合わせ先

電話番号:03-3251-4606

ホームページ:http://www.seido.or.jp/index.html

湯島聖堂の授与品(御朱印・御朱印帳・お守りなど)

湯島聖堂では、御朱印や学業成就のお守りもいただけます。

詳しくはこちらでご紹介しております。↓

【限定御朱印もある?】湯島聖堂の御朱印・御朱印帳・お守りの種類・授与料(値段)一覧!

湯島聖堂・湯島天満宮(湯島天神)ダブルで合格祈願!神田明神も!アクセス(行き方)をご紹介

湯島聖堂は湯島天神や神田明神からも歩いて行ける距離にあります。

行き方と距離をご紹介いたします。

湯島聖堂の所在地

〒113-0034 東京都文京区湯島1-4-25

湯島天神から湯島聖堂へのアクセス(行き方)

湯島天神から湯島聖堂までは「徒歩約10分」です。

湯島聖堂事務所に分かりやすい地図が貼られていました。

(こちらの地図では25分とかかれていますが、そんなにかかりませんでした)

神田明神にも参拝!

神田明神から「徒歩約3分」です。

神田明神とは

大己貴命(オオクニヌシノミコト)、少彦名命(スクナヒコナノミコト)とも国を作った神様で、五穀豊穣や大漁追福の神と言われています。 

そのことから、神田明神は商売繁盛や仕事運のご利益に絶大な効果があると言われています

東京神田に鎮座する神田明神は、丸の内や日本橋、秋葉原、旧築地市場など日本経済を支える一大商業地域を氏子に持っています。

初詣には、商売繁盛や仕事運祈願のため会社をあげて参拝に訪れる人々も多くいます。

また、地域の人々から深く信仰られています。

その他に神田明神は、縁結びや健康などのパワースポットとして知られています。最近はアニメのラブライブの聖地としても有名で、ラブライブとコラボしたお守りやグッズがファンに注目されています。

電車・バスで!湯島聖堂へのアクセス(行き方)

各駅からのアクセス方法をご紹介します。

電車の場合:最寄り駅から湯島聖堂へのアクセス(行き方)

JR御茶ノ水駅から湯島聖堂まで

  • 聖橋出口から入徳門まで徒歩約2分 

東京メトロ千代田線、東京メトロ丸の内線新御茶ノ水駅から湯島聖堂まで

  • B3b出口から入徳門まで徒歩約2分
末広町駅から湯島聖堂まで

  • 3番出口から入徳門まで約2分
秋葉原駅から湯島聖堂まで

  • 中央改札口(南口)から仰高門まで徒歩約8分

バスの場合:最寄りバス停から湯島聖堂へのアクセス(行き方)

外神田2丁目バス停から仰高門まで徒歩約2分です

湯島聖堂の駐車場

湯島聖堂の駐車場はありません。

近隣の駐車場

ジャストパーク 外神田第1

  • 住所:〒101-0021 東京都千代田区外神田2丁目2−2
  • 料金:全日8:00~22:00 20分400円 22:00~8:00 30分300円
    最大料金:全日 22:00~8:00 1200円
  • 営業時間:24時間営業
  • 定休日:無休
  • タイプ:平地
  • 収容台数:2台

リパーク湯島

  • 住所:〒113-0034 東京都文京区湯島1丁目3-3
  • TEL:0120-272-567
  • 料金:全日8:00~22:00 20分400円 22:00~8:00 60分100円
  • 最大料金:全日22:00~8:00 700円(繰り返し有)
  • 営業時間:24時間営業
  • 定休日:無休
  • タイプ:平地(自走式)
  • 収容台数:3台

もっと詳しく!湯島聖堂の歴史年表と「昌平坂学問所」について

湯島聖堂の歴史と、それに関係する昌平坂学問所について説明します。

湯島聖堂の歴史年表

1632年(寛永9年):
幕府儒臣林羅山が、上野忍ヶ丘の邸内に孔子廟を建てた。尾張藩徳川義直はこれを助けて、孔子の聖像と顔子・曾子・子思・孟子の四賢像や祭器を寄付し、「先聖堂」の扁額を与えた。

1661年(寛文1年):
幕府は先聖殿の大改築を行なった。正殿・杏壇門・入徳門などを完備した。

1690年(元禄3年):
将軍綱吉は、聖廟を神田台(現在の湯島)に移した。先聖殿を大成殿と改称、その後大成殿及び附属の建物を総称して、聖堂と称した。

1703年(元禄16年):
十一月、大火のため、大成殿・学寮・御成殿などが全焼する。

1704年(宝永1年):
大成殿を再建復旧。同時に復旧の入徳門は、現在も残っている。

建物全体を朱塗りにし、青緑に彩色。また、杏壇門の傍らに杏数株を植えた。

1772年(安永1年):
三月、大火のため、大成殿が類焼した。

1774年(安永3年):
大成殿を縮小し、再建した。

1786年(天明6年):
正月、大火のため、大成殿・学舎が類焼した。

1787年(天明7年):
大成殿をさらに縮小再建した。

1797年(寛政9年):
昌平坂学問所(昌平黌)を開設。2月、神農像を神田佐久間町の医学館に移した

1799年(寛政11年):
老中松平定信(楽翁)の幕府改革によって、大成殿を規模拡張・改築し、建物全体を黒塗りにした。

1846年(弘化3年):
江戸大火のため、昌平坂学問所・学舎が全焼するが、大成殿は災を免れた。

1990年(平成2年):
聖堂創建300年記念事業を行う。

1992年(大正11年):
3月7日、国法により聖堂は史跡に指定された。

10月29日、孔子2400年追遠記念祭を行なった。

1923年(大正12年):
9月1日、関東大震災により聖堂・斯文会事務所などが全焼。

入徳門・水屋は災を免れ、斯文会は、直ちに聖堂復興計画を立てた。

湯島聖堂博覧会について

1872年(明治5年)310日、湯島聖堂大成殿を会場とする「博覧会」が開かれました。

政府による日本で最初の博覧会で、「湯島聖堂博覧会」とも呼ばれます。

この博覧会は、翌年オーストリアで開催されるウィーン万国博覧会への参加準備を兼ねており、前年の大学南校(文部省の前身)物産会の展示物が引き継がれて展示されました。

「博覧会出品目録草稿」によると、陳列品は、古器旧物(文化財)、剥製、標本などを中心に大変幅広く、600件余りもあったようです。

特に、大成殿中庭のガラスケースで展示された名古屋の「金鯱」は大変な人気となりました。

博覧会は20日間の予定でしたが、観覧者が多く、入場制限がかけられるほどの大盛況となったため、会期を4月末日まで延長する対応が取られています。

博覧会の入場者総数は15万人、1日あたり約3,000人に上りました。

幅広いジャンルの珍しい陳列の品々がガラスのケースに整然と並べられた様子は、当時の人々にとっては、非常に新鮮だったことでしょう。

なお、この湯島聖堂博覧会をもって、上野の東京国立博物館の創始(開館)とされています。

林羅山

  • 1583-1657

林羅山は江戸幕府の御用儒学者です。

もともとは一介の浪人の子でしたが、学問が得意で近世儒学の先駆者の藤原惺窩(ふじわらせいか)に入門しました。

公家の批判を受けながらも、日本で初めて市民のための古典公開講座を開講しました。

惺窩の紹介で家康に接近し、江戸幕府の儒官を代表する林家の始祖となります。

当時は学問は身分の高い人のものでりましたが、身分の低い人も学問ができる世界の突破口を開いた人物です。

大学頭(だいがくのかみ)

昌平坂学問所の長官のことを言います。

1691年(元禄4年)綱吉によって羅山の孫の林信篤(鳳岡・ほうおう)が任命され、以後代々林家が世襲しています。

「林家」(りんけ)は文教を司り、儒学・朱子学が大いに盛んになっていきました。


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【補足】2018年看板が倒れた事故に関して

アイドルグループ「仮面女子」の猪狩ともかさん(当時26才)が、強風による影響で倒れた湯堂島聖の看板の下敷きになってしまいました。

猪狩ともかさんは救助後、すぐに緊急手術を行いましたが、脊髄損傷による両下肢まひで足を動かすことが困難な状況となってしまいました。

看板の大きさは縦約2.8メートル、横約4メートルで歩道に面した敷地内に立っており、講座やイベントの案内が掲示されていました。

事故の責任問題については双方の弁護士を通して話し合いが行われている状況とのことです。

この看板は事故後すでに撤されています。

湯島聖堂に限らず、史跡などに訪れる際は十分ご注意ください。

湯島聖堂の所在地・お問い合わせ先

所在地:〒113-0034 東京都文京区湯島1-4-25

電話番号:03-3251-4606

ホームページ:http://www.seido.or.jp/index.html

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