【日本七大稲荷&縁結びの神様💕】妻恋神社の名前の由来やご利益とは?歴史(年表)をまじえた境内見どころを‥‥知りたぅぃ?

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💕妻恋神社【関東総司稲荷神社】【日本七大稲荷】

読み方


「つまこい」

読み方からどんな意味合いでこの名前が付けられたのか想像してみてください。

そこには悲しい、だけど愛情に満ちた意味合いが込められています。(後述)

創建年


正確な創建年は不明とされていますが、現存する文献の記述から、湯島天満宮南東の妻恋代を神社の領地(社地)として4世紀(300年代)頃に創建されたと考えられています。

境内の面積


境内の面積は決して大きくありません。

こじんまりとしたサイズ感です。15人も人が入れば窮屈に感じてしまうほど小さな神社です。

例祭


妻恋神社の例大祭は毎年3月の第2日曜日に行われています。

2019年度は3月10日(日)、2018年度は3月10日(日)に行われています。

※現在の妻恋神社は付近に位置する著名な「湯島天神(湯島天満宮)」の宮司が管理されている。それゆえ、例祭も湯島天神から神職が来る。

💕妻恋神社の歴史

妻恋神社の創建

日本武尊が東夷征伐のおり、行宮(あんぐう/野営陣地)を建てた場所に、日本武尊が弟橘媛命の御霊を奉斎したのが、当神社の起こりです。

しかしながら、その行宮の場所は現在地ではなく、現在の湯島天神(湯島天満宮)の南東の台地であったとされています。

その後、1657年(明暦3年)に振袖火事(江戸時代を代表するぐらいの大火事(明暦の大火)のこと)が起こり、1660年(萬治3年)に現在地に遷座(移ってきて)してい‥‥申す。

度重なる焼失と再興

その後、天正年間(1573-92年)の間に徳川家康から二町四方(現在の約47000㎡、東京ドーム建築面積と同じくらい)の神社の領地(社地)を寄付されますが、1657年(明暦3年)、江戸三大大火の1つである振袖火事(別名:明暦の大火)が起こり、妻恋神社を含め、江戸は大半を焼失します。

1660年(萬治3年)に現在地で復興を試みますが、1923年(大正12年)の関東大震災にて火災が燃え移り、類焼してしまいます。

それでも1941年(昭和16年)に復旧しますが、またまた1945年(昭和20年)の東京大空襲により類焼します

この後、一時的に南東側の同朋町(どうぼうちょう、現在の外神田二丁目の一部など)に遷座しました。

9年後の1954年(昭和29年)に地域の住民(氏子)の有志らにより復旧が図られ、1971年(昭和46年)には同朋町会、妻恋会の氏子の寄付による資金で、大蔵省より土地を売り渡されます。(払下げ)

2011年の東日本大震災の際には本殿の屋根が崩壊するものの、多大な奉賛により、同年内に修復され、現在に至っています。

💕妻恋神社の簡単な歴史(年表)

年💕 できごと💕
4世紀頃 (伝承) 妻恋神社が創建される。創建場所は妻恋台(現在の湯島天満宮南東の台地)
第52代嵯峨天皇(809-823年)の勅命により関東惣社に列し、正一位を賜わる。「関東総司妻戀大明神」を名乗ることを許される。
天正年間 (1573-92) 徳川家康公が二町四方の社地を寄進す。
明暦 3年 (1657) 振袖火事(明暦の大火)が起こる。
萬治 3年 (1660) 社地が現在地(東京都文京区湯島 3-2-6)に移る。
大正12年 (1923) 関東大震災の折、類焼にして社殿焼失す。
昭和16年 (1941) 復興されるも太平洋戦争が始まる。
昭和20年 (1945) 東京大空襲にて類焼(罹災後、神田同朋町に一時的に移る)
昭和29年 (1954) 氏子有志一同の熱意と御願により復興される。
昭和46年 (1971) 大蔵省より社地が払い下げられる(買い取った)。値段は『壱百壱拾(110万円/現在の貨幣価値で約220万円)/参坪(3坪)』
神田同朋町会・妻恋会の氏子の資金提供(喜捨/=寄付)による。
平成21年 (2009) 妻恋神社電子版(公式サイト)を氏子有志および妻恋神社崇敬会(妻恋会と神田同朋町会の有志)により開設。
平成23年 (2011) 東日本大震災(2011年(平成23年)3月11日)により本殿の屋根が崩壊するも多大なる奉賛により同年、即座に復旧される。
平成25年 (2013) 復興と発展を祈願し、「吉夢(よいゆめ)の画像」と「絵馬(吾妻はや)」の頒布が開始される。
平成26年 (2014) 復刻「七福神宝船の画像」の頒布が開始される。

💕「関東総司」とは?

第52代嵯峨天皇(809-823年)の御代には、天皇の命令(勅命)のもと、特定の地域内の神社の祭神を集めて祀る「関東惣社」に名を連ね、そこで神に授けられる地位の中で最も位の高い正一位をいただき、「関東総司妻戀大明神」と称したと言われています。

江戸時代には「関東稲荷総司」「稲荷関東惣社」と称し、関東八州を代表する稲荷神社として知られました。

江戸時代(1836年/天保7年)頃の妻恋神社の様子

江戸名所図会より

江戸時代は「妻恋明神社(つまこいみょうじんのやしろ)」と呼ばれていたことが分かる。

境内には鳥居が2つ見えることから、おそらく子社だと推察できる。1社は「妻恋稲荷」だろうか。左端に見えるのが本殿として‥‥‥では、もう1つも子社の正体とは?はてさて。

さらに入口鳥居の場所に現在のような階段がない。

江戸時代後期の妻恋神社周辺の地図

この地図は江戸時代後期の様子を記した地図である。「イナリ」と記された場所が妻恋神社です。この頃、妻恋稲荷の方が有名であったのか、「イナリ」とだけ記されている。

それと、清水坂が島田弾正の屋敷の手前で右方へ屈折していることが分かる。

別の地図を見てみるとしよぅ。下掲の地図は江戸切絵図(江戸時代後期)のもの。

この地図では「妻恋稲荷」とハッキリきりきりキリンレモンのごとく、ハッキリと書かれている。意味不明

それと「ツマコヒサカ(妻恋坂)」の名称も見える。

💕「妻恋」の名前の由来

「妻恋」の意味を辞書で調べると次のように出てくる。

『恋しく思う女性、または妻。』

『夫婦が互いに相手を恋い慕うこと。鹿などの動物にもいう。』

これを妻恋神社の草創縁起にあてはめると、次のようになる(以下、一部、妻恋神社から引用)

日本武尊が、東方十二道の荒ぶる神や賊の平定のため、東へと旅立ち、東京湾を走水の渡り(はしりみずのわたり/※現横須賀市)から千葉へ向けて船で渡る時、途中、暴風雨に遭い、船はもてあそばれ沈みそうになった。

同行の妃・弟橘媛命が「夫の身代わりとして海に入り、海の神の心を鎮めましょう」と、「さねさし相撲の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも(焼津で自分を守ってくれた尊への思い)」と詠んで海に身を投じた。

すると海は鎮まり、尊は房総に上陸ができ、東国を平定し、大いに勲功をあげることができた。

帰路、上総の国碓日嶺に登り東南の方を望み「吾妻者耶‥‥‥」と恋い慕いたもうたとの意を取って「妻恋明神」と号した。

 

この文中で着目してもらいたいのが、「自らの身を投げ打ってまでして、夫(尊)の目的を叶えてあがたかった妻の愛」と、

そのことがキッカケとなり、「吾妻者耶‥‥‥(ああ、わが妻よ、恋しい)」と、もう2度と会えない妻への思い♡と後悔の念を激しく募らせながら、妻の御霊を祀る社をなんとか建立し、それに「妻恋神社」と命名したこと。この2つの事柄。

まさに「会えない妻への募る恋心と、生涯をかけて妻への愛を捧げ続けることを誓うために建てた神社」=「妻恋神社」と解釈できるのでゴザる。

ただ、留意しなければならないのは、当神社はこの日本武尊と弟橘媛命という夫婦を神として奉斎しているが、「妻恋」の名前の由来とは直接的な関係がないということ。

💕妻恋神社の別名

稲作が盛んだった土地柄、神社に稲荷神(倉稲魂命)を祀ったことから、妻恋稲荷とも呼ばれたようです。

そもそもこの妻恋神社の鎮座地である「湯島(ユシマ)」の名前の由来が、「聖なる水際の地」という意味合いが込められているとされ、古くから稲作が盛んに行われたようです。

💕「妻恋坂」の名前の由来

少し話は逸れまするが、妻恋神社の途中に出現する坂を「妻恋坂」と言うが、これは妻恋神社へと至る坂であることから、いつしか「妻恋坂」と呼ばれるようになっている。

しかしながら、妻恋坂は江戸時代の初頭には「大超坂(だいちょうざか)」と呼ばれ、この名称の由来は当時、坂の南側にあった霊山寺の住職が「大超」という名前だったことに因んでいる。

星霜を経ながら、「大潮坂」「大長坂」「大帳坂」とも書かれ、当て字が用いられたこともあったそうな。オホ

その後、霊山寺が前述、振袖家事の後に浅草へ移転する。

1660年(万治3年)、現在の湯島天神の南東の台地(旧湯島天神町)から大超坂の北側に妻恋神社が引っ越してきたため、それ以後は坂の名前も改められ、いつしか「妻恋坂」と呼ばれるようになったとのこと。うきゃ

💕妻恋神社の主祭神とご利益

妻恋神社に祀られている神(祭神)は、三柱(みはしら)で成り立っています。

①倉稲魂命(うか(うがとも言う)のみたまのみこと)

  • 神格(ご利益)・・稲の神(女神)。稲荷稲生。五穀豊穣、商売繁盛、家内安全など。
    ※「うか」は古語で「食」の意味がある

「うかのみたま」と聞くとピンと来ないかもしれませんが、この神はいわゆる「お稲荷さん」として親しまれている、穀物を始めとする食物を司る神です。

うかのみたま神と稲荷神はもともとは別の神だったと考えられますが、性格が似ているために、古くからあったうかのみたま神に対する信仰と、奈良時代に起こった稲荷神への信仰が、次第に結びついたものと考えられます。

農耕に関するご神徳から派生し、農業以外の諸産業の興隆、商売繁盛などや、食物を司るという点から、家内安全など、幅広いご利益があるとされています。

②日本武尊(やまとたけるのみこと)

  • 第十二代景行天皇の第二皇子、第十四代仲哀天皇の父
  • 神格(ご利益)・・武神、軍神、国土神(農業神)。国土安穏、出世、開運招福、除災など。

日本武尊は、『古事記』『日本書紀』に登場する大和政権の統一に活躍した英雄で、『古事記』では「倭建命」と表記されます。

少年時代から異常な猛々しさを発揮して兄を殺してしまうなどし、父・景行天皇にうとまれ、その結果、全国の反抗勢力や未だ統一できていない地域の平定のための出征の命を受け、九州、出雲、東国と、各地を奔走します。

東国遠征に際して、伊勢神宮の斎宮で、叔母である倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣(くさなぎのつるぎ)をもらうエピソードは有名です。(草薙剣は熱田神宮にご神体として祀られています)

③弟橘媛命(おとたちばなひめ) 

  • 日本武尊の妃

日本武尊と弟橘媛命のエピソードについては、以下でご紹介いたします!


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「弟橘媛命」について

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は体格が良く、武力にもすぐれていたため、父・景行天皇より「日本の全国統一」を命じられました。

日本武尊は東へと旅立つものの、走水(はしりみず)の渡り(現在の横須賀市)から千葉方面へ船で渡る途中に暴風雨に遭ってしまい、船が沈みそうになります。

その時、同行していた妃の弟橘媛命が「私が夫の身代わりに海に入って、海の神の心を沈めます」と、海に身を投じたのです。

これにより海は静まって、日本武尊は無事に房総に上陸することができ、さらには東国を平定し、大いに勲章を挙げることもできました。

帰路、日本武尊は国碓日嶺(うすいとうげ・群馬県と長野県の境にある峠)に登り東南の方を望みながら、「吾妻者耶(あずまはや)…(わが妻よ…)」と恋い慕ったそうです。

その時の野営陣地後が今の妻恋神社であり、「妻恋明神」という名称が、日本武尊の意を汲んだ村民たちによって付けられました。

また、「あづまはや」から関東のことを「あづま・あずま」というようになったとも言われています。

💕妻恋神社の境内図と見どころ

小さいながらも由緒ある妻恋神社は、拝殿、本殿、水子地蔵、妻恋稲荷、馬頭観音石碑などの見どころがあります。

まずは鳥居をくぐって、石段を上り、境内に入ります。

拝殿・本殿💋

鳥居をくぐってすぐ左側にあるのが拝殿です。

境内よりもやや高い位置に建っていることもあり、見上げるような形になりますが、入母屋屋根の正面に向拝(ごはい・こうはい)が付いた、拝殿としてはよくある様式の建物です。

「最近お賽銭を持って行ってしまう人がいて困ってる」といった内容の注意書きが出ていました。

普段、無人なのをいいことに、皆さんが信仰心から捧げたお賽銭を盗むなんて、けしからん輩がいるものです・・。

なお、拝殿の後ろに本殿(非公開)があります。

航空写真で確認する限り、切妻造・平入の建物で、5本の堅魚木(かつおぎ・鰹木)を乗せた、こちらも本殿らしい建物です。

拝殿よりも小さく、正面から見ると拝殿で隠れてしまう上、左右や背後も塀・建物があり、その姿を見ることはなかなかできません。

本殿(拝殿)に吊られた扁額(へんがく)

妻恋神社の「恋」は「」という難しい方の漢字(旧字体)で書かれている。

この漢字の字体は、中央に「言」という漢字を据え、その左右両脇に「糸」を用い、その下に「心」を置いてい‥‥申す。

これらが示すところは、両脇の糸は男女を意味し、自らの心の内を言いたいがなかなか言えない‥‥というモドかしさがこの字体には込められているように思えてならない。

ちなみに昭和21年11月16日以前までは「」が当用漢字だったので、これが正式だった。

ところが昭和21年11月16日に国会の国語審議会において新字の「恋」が当用漢字として内閣告示されたので、以来、現在に至るまで「恋」が当用漢字として用いられている。

「戀」という漢字は現在の日本では公式の登録には使用できない。その代表例が名前。常用外漢字なので子供の名前として「戀」はつけられない。(所定の外国人は使用可能)

水子地蔵💋

あまり目立ちませんが、入口から入って左手、拝殿の左脇に小道があり、

「水子地蔵」と書かれた看板を見つけることができます。

その奥に歩いていくと、赤ちゃんを抱いたお地蔵様が見えてきます。

お供えものもあり、多くの参拝者が来ていることが伺えます。

水子地蔵とは

水子地蔵とは、様々な理由で生まれる前に亡くなった胎児や、生まれて間もなくして亡くなってしまった赤ちゃん(水子)を祀ったお地蔵様のことを言います。
水子を供養するため、大小の寺院や墓地に、よく安置されています。

水子という呼称は、生まれて間もない間に海に流された日本神話の「水蛯子(ひるこ)」から転じたものだといわれています。

合掌している水子地蔵は、水子のお母さん代わりのお地蔵様で、慈母観音菩薩といい、お母さんが子供へ与える愛情と同じくらいの愛情を持つとされています。
そして杖を持って子供を抱っこしているお地蔵様は子安地蔵といい、妊婦さんの安産を見守るお地蔵様で、赤ちゃんを授かるために祈願する人も多くいます。

水子地蔵を見かけたら立ち止まって合掌し、健やかにそして幸せに暮らす子供達を祈ることもよいでしょう。

妻恋稲荷💋

五穀の神・お稲荷様のお社は、鳥居をくぐって目の前の、わかりやすい位置にあります。

小規模な社殿ですが、よく見ると彫刻が施され、階段には小さなキツネの像が置かれています。

白いキツネは、言わずと知れた、お稲荷様のお使いです。

境内の規模は小さいながらも「日本七社(日本七稲荷)」の1つに数えられ、古くから篤い崇敬が寄せられてきた歴史的背景が見えます。

馬頭観世音💋

真ん中に 「馬頭観世音」と彫られているのが見えるでしょうか?

十何年もの間、妻恋神社への夜中参りを続けてた岩金たつさんが、1945年(昭和20年)の東京大空襲の後、焼け跡から見つけ出した観音像を祭るための石碑を譲り受け、石碑に掘る彫刻代(当時の17,500円)の工面に悩んでいたところ、ある朝ぴったりの金額が入った封筒を拾い、彫刻代にあてることができた、というエピソードが残っている石碑です。

なお、馬頭観世音は「ばとうかんぜおん」と読み、菩薩の中で唯一、怒りの表情で描かれる観音菩薩です。

馬頭を頭上に乗せている、あるいは馬の頭を持つ仏とされ、人々の苦悩や煩悩を消し去る力を持つと言われています。

手水鉢

妻恋神社の境内にはあまり目立たないのだが、味のある手水鉢が置かれてい‥‥申す。グハっ

その下には和様を醸すために「石洗い出し」を用いて流路を造成している。神社側の細部に至るまでのコダワリのようなものが垣間見える箇所です。

妻恋神社のねこまつり😻

年に2回、毎年2月と9月、湯島の地域は猫だらけになる日がありますが、このイベントを「ねこまつり」と称しまする。

⬆️ねこまつりの幟

「ねこまつり」とは、湯島にある商店や飲食店などが中心になって参加するイベントです。毎年2月と9月に開催されてい‥‥‥申す。

参加しているお店を利用することで、猫スタンプが1つもらえまする。この猫スタンプを集めると何か景品がもらえる仕組みになってい‥‥申す。

妻恋神社もこの猫まつりイベントに参加しており、ねこまつり期間中、「猫祭り限定御朱印」が用意されまする。

ねこまつり限定御朱印は猫の朱印が押されます。

御朱印について詳しくは、当サイト【ねこまつり限定御朱印も!】東京・妻恋神社の「御朱印・御朱印帳・お守り」をご紹介!でご紹介しています。

普段は込み合うことがめったにない妻恋神社ですが、この時ばかりは多少の行列ができます。

なお、御朱印はすでに宮司によって書かれた書き置きタイプのものです。授与されているのは毎年ほぼ、地元のボランティアの方々です。(宮司は来ない)

したがって、並んでも待ち時間は長くて20分かからないぐらい。※多ければ整理券が配布される※

妻恋神社の社紋(神紋)は「檜扇(ひおうぎ)に御の字」!!

妻恋神社には提灯や灯籠があまりないので、社紋が分かりづらいのですが、1カ所、わりと見やすい位置に社紋が描かれている場所がありまする。

その場所がココです。

『賽銭箱』!!

上掲写真の賽銭箱に描かれている社紋を見れば分かるように、妻恋神社の社紋は”センス”の良い”扇子”の形で描かれていることが分かりまする。笑ろてや〜

この扇は至る場所で見ることができまする。たとえば‥‥

御朱印

敷石(飛び石)

檜扇の中央部に「御」と書かれている由緒は判然としないようですが、檜扇の紋は元来、神社で使用される紋ではなく、いずれかの氏族が当社の創建や中興に関与しているものと推察できまする。


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妻恋神社の豆知識!💕

妻恋神社に関わる豆知識をまとめてみました。

町内会で運営されています

妻恋神社は神田明神湯島天神という大きな神社の間に挟まれた小さな神社で、町内会によって運営されています。

ただ、厳密には湯島天神の宮司さんが湯島天神社と妻恋神社の宮司を兼務されてい‥‥‥申す。グハっ

妻恋神社周辺には湯島天神社のみならず、全国的に有名な神田明神(神田神社)もあるので、両社への参拝途中に立ち寄る方の姿もチラホラと。

ホテル街の中の神社

妻恋神社に行く途中の道々に、ラブホテルや旅館が多いのに気が付くと思います。

これは、お参り前にはけがれや不浄なもの(体内から出るものという意味)をきれいにし、けがれのない清らかな状態にしてから参拝するという昔の習慣の名残が残っている、ということだそうです。

左隣もホテルでした↓

余談ですが、同じく江戸の浅草寺近くには、有名な吉原遊郭がありました。

これも同じように「浅草寺にお参りする前にけがれを落とす」という意味合いがあったということです。

妻恋神社の授与品💕(御朱印・御朱印帳・お守りなど)

妻恋神社で通常授与していただける御朱印は1種類です。

2019年10月に参拝したところ、ちょうどこの時期のみ、天皇陛下ご即位の記念御朱印を限定で授与されているということで、通常の御朱印と限定の御朱印をいただきました。

こちらは限定販売のため、なくなり次第終了とのことでした。

妻恋神社の御朱印とお守りについて詳しくは、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。

【ねこまつり限定御朱印も!】東京・妻恋神社の「御朱印・御朱印帳・お守り」をご紹介!

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