【美髪・縁結び・商売繁盛祈願】湯島聖天・心城院の歴史(由来)・ご利益や境内見どころを‥‥‥知る必要はある?

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心城院は、湯島天神に続く天神石坂下にある小さなお寺で、髪の毛がキレイになるという名水があることでも知られています。

ビル街の下にひっそりとあるとてもこじんまりとしたお寺です。

すぐそばにある湯島天神の華やかな境内に比べると、訪れる人は多くありませんが、のどかな雰囲気が漂ったお寺ですので、ぜひ、お出かけください。

コチラのページでは、心城院の歴史や見どころ、ご利益(霊験)などをご紹介していきます!

湯島聖天・心城院の読み方・正式名称

正式名称は「湯島聖天心城院(ゆしましょうでんしんじょういん)」。

通称では「湯島聖天(ゆしましょうでん)」と呼ばれています。

別名

「湯島聖天亀の子寺 (湯島しょうでんかめのこでら」という別名も合わせ持っています。

もとは湯島天神の別当寺・天台宗喜見院(てんだいしゅうきけんいん)の「宝珠弁財天堂(ほうじゅべんざいてんどう)」と称されていました。

柳井堂・心城院とも

心城院の境内には江戸名水「柳の井」があることから、「柳井堂(りゅうせいどう)心城院」もしくは、「天台宗 柳井堂 心城院(てんだいしゅう やないどう しんじょういん)」と称されています。




湯島聖天・心城院のマップ

湯島聖天・心城院の御本尊「聖天様(しょうてんさま)」(絶対秘仏)とご利益について

正式名は大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)・大聖歓喜自在天・大聖歓喜双身天王などといいます。

通称では「聖天様」と呼ばれています。

聖天様は、象頭人身(象の頭と人の体)で描かれることが多く、大概は、男性の神(男天)と女性の神(女天)が、たった状態で向き合うように抱擁している姿(双身像)で表現されます。

ヒンドゥー教の象の頭を持つ神「ガネーシャ神」が起源とも言われており、単身像の場合は、ガネーシャ神と同じように、腕が4本(四臂)または6本(六臂)とされることも多くなっていますが、日本において聖天様の象は秘仏とされている場合が多く、本物の像にはほとんどお目に架かれません。

象のお姿から、「力強く障害を取り除く神」とされ、聖天様は信仰すると効果が大変高く、仏教の守護神として崇められています。

心城院でも、尊像は厨子の中に奉安されている「絶対秘仏」です。

本尊は比叡山から勧請した第三代天台座・主慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)により作られたと伝えられています。

絶対秘仏とは

信仰上の理由により非公開とされ、厨子などの扉が閉じられたまま祀られる仏像を指します。

年に1度だけ開帳されるものや33、61年などに1回開帳されるものもあり、これらは秘仏と呼ばれているのに対して全く開帳されない秘仏を絶対秘仏と言います。

主な絶対秘仏


などです。

聖天様のご利益について


聖天様のご利益は大きく分けて2種類あり、「二股大根」と「巾着袋」に象徴されます。

  • 二股大根…夫婦和合・縁結び・家内安全など
  • 巾着袋…商売繁盛・金運・子孫繁栄など

ご紹介した通り、始まりは「障害を取り除く神」であり、何かを「絶つ」のを助けてくれる神とも言われていますが、男女の神が抱き合う姿から、夫婦円満や縁結び、子宝などのご利益があるとされています。

境内や堂内の至るところにそのご利益の象徴が印されています。

二股大根と巾着袋がデザインされたのぼり

二股大根・巾着袋とは・・?

二股大根と巾着袋にはそれぞれ意味があります。

二股大根の大根は身体を丈夫にしていただき、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合を御加護頂ける功徳を表しています。

(大根は男天さまの好物でもあり、男根の象徴とも言われています。)

巾着は財宝で商売繁盛を表し、聖天様の信仰のご利益の大きいことを示されたものです。

(男天さまが腰にブラ下げてる砂金袋のことです。)




湯島聖天・心城院の境内図と見どころ

湯島天神に続く天神石坂下にある小さなお寺です。

ビル街の下にひっそりとあるとてもこじんまりとしたお寺です。

湯島天神の華やかな境内に比べると、訪れる人も少なくとても静かです。

それでも寂しい雰囲気はなく、どちらかと言うとのどかな空気が漂っています

境内の面積

大きな寺院ではありませんが落ち着いた雰囲気の境内です。

こじんまりとした寺院ではありますが、古びた感じはなく、見応えのある寺院です。

髪の毛がきれいになる・・?手水舎「柳の井」

 

古来より湧き続ける清き水「柳の井の水」で口をすすいだ後に水を髪に数滴撫でつけると、髪がきれいにになると言われています。

そのせいか、女性の参拝者の方が多かったです。

また髪の毛だけでなく、心も浄められ、降りかかる災難をはらってくれると言われています。

柳の井の水を少し飲んでみましたが、やわらかめの舌触りでした。

この「柳の井」の水は、江戸名水の1つであることから柳井戸堂と呼ばれています。

「柳の井」の水は、関東大震災のとき、避難した多くの人たちの命を救いました。

江戸名水「柳の井」の案内看板の説明(引用)

江戸時代の文献『江戸砂子』・『御府内備考』・『紫の一本(ひともと)』・『江戸志』などの「柳の井 男坂下」の項に、「この井は名水にして女の髪を洗えば如何ように結ばれた髪も、はらはらほぐれ垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけずると云う心にて、柳の井と名付けたり」と記されています。

「柳の井」は古来より水枯れもなく、数滴髪に撫でれば水が垢を落とすが如く、髪も心も清浄になり降りかかる厄難を拂ってくれると伝えられています。この霊水の美髪・厄除けのご利益を求め、日々参拝者が訪れています。

また、関東大震災の時には、湯島天神境内に避難した多数の罹災者の生命を守った唯一の水として、当時の東京市長から感謝状を受けました。(指定 文京区防災井戸)

お水取り(お水を持ち帰る)際の注意点

心城院によればこの水は飲料可能として周知されています。『持ち帰って飲む場合は、なるべく煮沸してからお飲み下さい。』とのことです。

本堂(ほんどう)

本尊・大聖歓喜天、札所本尊の十一面観音菩薩、宝珠弁財天、出世大黒天が安置されています。




弁財天放生池(べんざいてんほうじょうち)

かつての池は太鼓橋が架かる程の規模だったようです。

この池の水源は「柳の井」で、元禄の昔から病気平癒などの祈願で縁起の良い亀を放していました。

そして「亀の子寺(かめのこでら)」として親しまれていました。

その後、都市化の影響で水が抜け、亀が生きていくのが難しくなりました。

しかし平成23年(2011)に縁者の寄進によって再び池が作られ、亀が無事に放たれました。

無事に冬を越した子カメ達は、暖かくなったので、令和元年5月1日に池に放されています。

鯉もたくさんいます。

時にはこの橋の上にたくさんの亀が歩いているそうです。

この日は雨のせいか、池の中にしかいませんでした。

ほほえみ地蔵(ほほえみじぞう)(地蔵尊・じぞうそん)

戦後復興の兆しがみえてきた頃のある朝、突如出現したお地蔵様だといわれています。

由緒は定かではありませんが、お心安らかなそのお顔はいつしか「幸せ」を呼ぶ地蔵尊として親しまれています。

八体地蔵(はちたいじぞう)

「災害復興地蔵尊」は、大正十二年(1923)9月1日の関東大震災で亡くなった方々の冥福と地元の平和発展を祈念じ造立されました。




水琴窟(すいきんくつ)

日本庭園の装飾のひとつで、手水鉢(ちょうずばち)の近くの地中に作りだした空洞の中に水滴を落とさせ、そのとき発せられる音を反響させる仕掛けになっています。

手水鉢の排水を処理する機能をもっています。

心城院の水琴窟のやり方

竹筒がブッ刺さっている所に水をかける

水をかけたあと、手前に飛び出している竹筒に耳をあてる

耳をあてると地下に埋め込まれている甕が発する響音が竹筒を通して聞こえてくる。

水琴窟のご利益

なんでもこの水琴窟の響音を聞くことによって厄除けが成され、開運するそうです。

水琴窟の案内板の説明

水琴窟と呼ばれる仕掛けのものは、茶人でもあり、作庭家としても有名な小堀遠州(こぼりえんしゅう/1579年〜1647年)が初めて作ったと云われるものです。

手水からしたたり落ちる水が、地中に埋めた甕の中で反響し、あたかも琴を奏でたかのような音が私たちを楽しませてくれます。

都心の由緒正しい古寺で心穏やかなひと時を感じていただきたく、放生池改修工事を記念し奉納いたします。

平成23年11月吉日 

願主 株式会社 東農園   作庭 山下利隆 関口 雄一

 

工事前の水琴窟

手水鉢(ちょうずばち)

手水鉢とは神前、仏前で口をすすぎ、身を清めるための水を確保するための器をさします。

その後茶の湯にも取り入れられ、露地の中に置かれるようにもなりました。

心城院の手水鉢は、入口を入ってすぐ右側のところにあります。

荼枳尼天社(だきにてんじんじゃ)

五穀豊穣・商売繁盛の守り神です。




その他の見どころ・周辺情報

男坂

男坂とは、天神石坂とも呼ばれている38段の石の階段です。

心城院の右側にあります。

38段の石の階段で、1段1段が急な階段になっています。

1段の高さもかなりあるので手すりにつかまりながらの上り下りが必要です。

湯島聖天・心城院の歴史(由来)

元禄7(1694)年、喜見院第三世宥海大僧都(ゆうかいだいそう)が、歓喜天(かんきでん)を弁財天堂に奉安したことが始まりでした。

これは菅原道真(すがわらみちざね)が九州に流された時、大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)に願いごとを祈ったことが縁となったと言われています。

昔は現在の湯島天神男坂下、湯島天神の表門にありました。

太田道灌(おおたどうかん)の御殿・皓月亭跡(こうげつていあと)とも伝えられています。

寺門維持のため享保のころ、幕府から「富くじ」が発行されます。

江戸では、谷中感応寺(やなかかんのうじ:現・天王寺)、目黒瀧泉寺(めぐろりゅうせんじ:目黒不動)、喜見院(湯島天神)が「江戸の三富」と言われ、大いに賑わっていました。

その後、喜見院は明治維新の神仏分離令により廃寺となりました。

しかし柳井堂(りゅうせいどう)は難を逃れることができました。

江戸名水のひとつの「柳の井戸」があることから「柳井堂」と称されています。

その後、建立当時の因縁により天台宗に属し、寺名を「心城院」と改めました。

江戸の大火や関東大震災、東京大空襲の影響を受けることもなく、法灯を伝えてきました。

湯島聖天・心城院の授与品(御朱印・御朱印帳・お守りなど)

心城院では、ご本尊の聖歓喜天の御朱印と、江戸三十三観音札所第七番の十一面観世音菩薩の2種類を授与していただけます。

また、「亀の子寺」と呼ばれることから、亀にまつわる授与品もあります。

聖天様のご利益を表す「二股大根」や「巾着袋」にちなんだ授与品もあります。

詳しくは、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。

【限定御朱印もある?】湯島聖天・心城院の御朱印・御朱印帳・お守りの種類・お布施(値段)一覧!

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