湯島聖堂(昌平坂学問所)の歴史年表
江戸時代
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年号 | 出来事 |
1630年(寛永7年) | 林羅山、江戸上野忍岡に書庫・学寮の建設(幕府より援助資金) |
1632年(寛永9年) | 幕府儒臣林羅山が、上野忍ヶ丘の邸内に孔子廟を建てた。 尾張藩徳川義直はこれを助けて、孔子の聖像と顔子・曾子・子思・孟子の四賢像や祭器を寄付し「先聖堂」の扁額を与えた。 |
1633年(寛永10年) | 2月10日、林羅山、上野忍岡の先聖殿にて初の釈奠(せきてん)挙行。 7月17日、家光、先聖殿に詣でる。このとき、羅山の「尚書」堯典の講義を聴聞。 |
1660年(万治3年) | 幕府、先聖殿・学寮の再建・大改築を行い、正殿、杏壇門・入徳門などを完備。 |
1661年(寛文1年) | 幕府は先聖殿の大改築を行なった。正殿・杏壇門・入徳門などを完備した。 |
1682年(天和2年) | 1月1日、綱吉公、読書始の儀設を儲ける。第一回 柳沢吉保「大学」 |
1688年(元禄元年) | 毎年11月21日を廟参の日と定める。幕府公式行事と相成る。 |
1690年(元禄3年) | 将軍綱吉は、聖廟を神田台(現在の湯島)に移した。 先聖殿を大成殿と改称、新たに仰高門を新造し、その後大成殿及び附属の建物を総称して、聖堂と称した。 このとき建物全体に朱漆塗りをほどこし、青緑に彩色した林家学寮も湯島聖堂内に移築す。 |
1691年(元禄4年) | 2月11日、湯島聖堂落成式を斎行す。聖堂での第一回釈奠が開催される。 これに先立ち、鳳岡邸内の孔子像を湯島大成殿へ移す、。林鳳岡、大学頭任官に就任す。 この年、仰高門内東舎内で一般人を対象とした経書の講釈が行われた。「東舎講経」の始まりとなる。 ※講経=経典の講義をすること。 |
1692年(元禄5年) | 2月13日、第二回釈奠にて綱吉公、論語を論ず。 |
1698年(元禄11年) | 4月、聖堂構内東北の隅に祠堂を建て、神農像を奉安す。 この神農像は平安期に宋よりもたらされ、当初、東大寺に奉安されてきたとされてきた。 しかし、後々の調査で1640年(寛永17年)に家光公の命により、山下宗琢が造立したことが明らかになる。 なお、現在までの調査では作者は明石清左衛門、藤原真信とされる。調査は現在も進行中。 |
1703年(元禄16年) | 11月29日、江戸大火(水戸様火事)のため、大成殿・学寮・御成殿などが全焼する。 |
1704年(宝永1年) | 11月11日、聖堂再建成る。 大成殿を再建復旧。同時に復旧の入徳門は、現在も残っている。 建物全体を朱塗りにし、青緑に彩色。また、杏壇門の傍らに杏数株を植えた。 25日、孔子像を遷座す。 |
1715年(正徳5年) | 庁堂において経書の講釈が執り行われる。庁堂講説のはじまり。 |
1717年(享保2年) | 仰高門東舎(講堂)において、毎日儒学の講義(日講)を開き、庶民に開放した。明治維新まで存続。 |
年号 | 出来事 |
1722年(享保7年) | 幕府、信篤に春秋の釈奠の礼を1本化し、宴席を廃して費用を圧縮。 祭費の幕府補助を中止する。 (享保の改革の一環) |
1772年(安永元年) | 2月29日、江戸大火発生。(目黒行人坂火事)。 大成殿類焼す。 |
1774年(安永3年) | 大成殿を縮小し、再建した。 |
1786年(天明6年) | 正月、大火のため、大成殿・学舎が類焼した。 |
1787年(天明7年) | 大成殿をさらに縮小再建した。 |
1789年(寛政元年) | 9月、幕府、柴野栗山・岡田寒泉を儒者として任用す。 |
1790年(寛政2年) | 5月24日、「寛政異学の禁」発出。 これにより湯島聖堂にて朱子学以外の異学の講究が禁じられる。 |
1791年(寛政3年) | 9月21日、幕府、尾藤二州を儒者として任用す。 10月24日、幕府、多紀氏の異学館(瞬寿館)を官学とす。 |
1792年(寛政4年) | 8月23日、聖堂内に庁堂・学舎を新築、尾藤二州教官住宅を建設す。 第一回学問吟味(応募者280名を数える)。 |
1793年(寛政5年) | 第一回、素読吟味。 |
1797年(寛政9年) | 昌平坂学問所(昌平黌)を開設。2月、神農像を神田佐久間町の医学館に移した |
1798年(寛政10年) | 2月、幕府、「学問を設立して目見以上以下の者に通学または寄宿を許す件」発令。 前年の昌平坂学問所開設に続き、幕府直参の子弟を対象に入学を許可。 学寮に寄宿寮(三棟・二棟は旗本、一棟は御家人。 一棟十室、計30名収容、天保以降48名へ増築。官費支給。)を開設す。 通学生は南楼通い。 |
1799年(寛政11年) | 老中松平定信(楽翁)の幕府改革によって、大成殿を規模拡張・改築し、建物全体を黒塗りにした。 |
1800年(寛政12年) | 3月30日、幕府、「学問を設立して教育を施すにつき、人々の学問奨精すべきの件」「学問所建築落成につき、入学を許すの件」発令す。 幕府直参の子弟に引き続き、諸士の学問所入学を許可。 ※書生寮を開設(尾藤二州の旧役宅を割り当てる。当初3、4人。) |
1801年(享保元年) | 寄宿寮入学資格者以外の陪臣・浪人・遊学人など学問所付属者の門弟となれば誰でも入学可となる。 |
1802年(享和2年) | 幕府、前年の上申書により50名ほど収容の書生寮を建設す。 費用は自己負担。 その後、7〜80名規模の寮となる。 |
1841年(天保12年) | 11月、幕府、佐藤一斎を儒者として任用す。 |
1846年(弘化3年) | 1月15日、江戸大火(小石川より出火)のため、 学問所・学者が全焼す。 大成殿は幸いなことに火難を免れた。 この時、日本橋・江戸橋焼け落ちる。 |
1850年(嘉永3年) | 3月、幕府、安積艮斎(あさか ごんさい)を儒者としてに任用。 |
1852年(文久2年) | 監谷宕陰、安井息軒、芳野金陵らが儒官に起用される。 |
1867年(慶応3年) | 1月28日、幕臣に対し8歳以上は昌平坂学問所での就学を布告す。 |
【補足】江戸時代後期の湯島聖堂と現在の湯島聖堂を地図で比較!
この地図は江戸時代後期(1800年中頃)の湯島聖堂周辺の様子です。(御江戸大絵図)
現在の湯島聖堂の敷地全体図
江戸時代後期(1800年中頃)の地図
この絵図によれば往時の湯島聖堂の敷地は現在の東京医科歯科大学にまで及び、広大な敷地を有していたことが分かり申す。
後、1874年(明治7年)に、御茶ノ水の東京女子高等師範学校が創設される運びとなり、現在の敷地面積に着地していまする。
一方の御茶ノ水の東京女子高等師範学校は以下のような理由にて、現在地である東京都文京区大塚へ移転を余儀なくされています。
- 1923年に発生した関東大震災で校舎が焼失した。
- 東京高等歯科医学校(現在の東京医科歯科大学)が建物の拡張する緊急性があった。(かつての東京医科歯科大学は、東京女子高等師範学校の敷地の一部を間借りしていた)
さらに名称も「お茶の水女子大学」へと改称していまする。
明治時代
年号 | 起こった事 |
1868年(明治元年) | 明治維新成る。王政復古の大号令。 2月10日、新政府官制を発布。聖堂、新政府(大総督)によって接収される。 8月14日、学問所を昌平学校と改称す。 山内豊信が知学事となる。 この時、旧幕府の医学書、開成所(開成学校)も同時に復興。 |
1869年(明治2年) | 8月15日、政府が大学高を設立す。 昌平学校を中心とし、開成学校・医学校を大学分局として、これらを大学校と総称す。 9月7日、大学校にて学神祭を斎行。 この学神祭では孔子に代えて八心思兼命(やごころ おもいかねの みこと)を祭祀したため 国学派と漢学派との抗争の火種となる。 |
1870年(明治3年) | 1月18日、政府、大学校を大学(本校)、開成学校を大学南校、 医学校を大学東校と改称す。 8月8日、大学内部での学派対立に伴い、大学本校閉鎖す。 大学南校、大学東校は存続す。 10月、大学南校に物販局仮役所を設置す。 湯島大成殿を鑑賞場と定める。 |
1871年(明治4年) | 9月2日、大学を廃し、文部省が創設される。 同日、初代文部大輔に江藤新平、12日には初代文部卿に大木任喬を任命す。 文部省に博物局を設置し、大成殿を陳列場とし博物館と称する。 9月5日、大学南校、大学東校を文部省直轄とし、単に南校・東校と改称す。 |
1872年(明治5年) | 4月17日、湯島聖堂にて国内初となる博物館主催の博覧会を開催す。 この頃、聖堂が地方官会議議場となる。 文部省、常盤橋に移転。 7月4日、師範学校開設す。 8月1日、湯島聖堂内東京博物館内に書籍館(「しょじゃくかん」)を開設す。 わが国始まって以来の図書館であった。 |
1873年(明治6年) | 4月、師範学校附属小学校授業開始す。 初の師範附属。 |
1874年(明治7年) | 3月13日、女子師範学校を設立す。 5月、湯島聖堂に博覧会事務局主催の書画展覧会が開催される。 8月24日、湯島聖堂内の書籍館の蔵書を浅草へ移転す。 ここに公立図書館・浅草文庫が誕生す。 |
1875年(明治8年) | 3月30日、博覧会事務局を博物館と改称す。 内務省の所管とす。 4月8日、文部省所管の書籍館・博物館をそれぞれ東京書籍館・東京博物館と称す。 |
1876年(明治9年) | 11月14日、東京女子師範学校内に幼稚園を開設す。 初の近代的幼稚園であった。 |
1877年(明治10年) | 1月26日、文部省所管の聖堂内東京図書館を教育博物館と改称す。 |
1880年(明治13年) | 6月6日、重野安繹・川田剛らが発起人となり、初代会長に有栖川宮熾仁親王をいただき、斯文学会発会式を斎行す。 7月1日、東京府書籍館を文部省の所轄に復す。 東京図書館と改称す。 |
1882年(明治15年) | 3月、博物館を上野に移す。 農商務省所管とす。 国立博物館の起源となった。 |
1883年(明治16年) | 浅田宗伯が医学生養成のため温知饗を開催す。 この労により浅田家に神農像が下賜される。 のち、木村博昭が浅田家を継ぎ、像は本郷曙町の木村家に移管される。 |
1885年(明治18年) | 6月2日、東京図書館、東京教育博物館と合併す。 上野移転す。 8月27日、東京女子師範学校を東京師範学校に合併し、その女子部となる。きゃきゃきゃ |
1907年(明治40年) | 4月28日、東京高等師範学校職員有志の孔子祭典会、湯島聖堂にて維新後初の孔子祭を斎行す。 祭主は細川潤次郎。 以後は4月第4日曜日を例祭日とす。 |
大正時代
年号 | 起こった事 |
1918年(大正7年) | 9月27日、斯文学会・孔子祭典会などを統合改組し、 公益財団法人 斯文会を創設す。 |
1921年(大正10年) | 6月24日、東京教育博物館(文部省所管)が東京博物館として独立す。 |
1922年(大正11年) | 3月7日、国法により湯島聖堂を史跡に指定す。 10月29日、孔子卒後2400年追遠記念祭を斎行す。 斯文会会長に徳川家達(徳川宗家第16代当主)が就任す。 |
1923年(大正12年) | 9月1日、関東大震災により聖堂・斯文会事務所などが全焼す。 宝永元年造営の入徳門や水屋は災を免れた。 斯文会は、直ちに聖堂復興計画を立てた。 |
昭和時代
年号 | 起こった事 |
1925年(昭和元年) | 湯島聖堂復興期成会を結成す。 斯文会を中心とし湯島聖堂の復興に着手す。 孔子頌徳歌を全国に募集す。 |
1932年(昭和7年) | 聖堂再建地鎮祭を斎行す。 斯文会、大塚先儒所において初めて先儒祭を行なった。 以後、毎年秋には先儒祭を斎行す。 |
1935年(昭和10年) | 4月4日、聖堂復興竣工式・孔子像鎮斎式を行ない、同時にこれを国家に献納した。 孔子像は3月29日、御下賜の御物で、明の遺臣朱舜水が携えて来たもの。 復興聖堂は規模構造すべて旧聖堂に拠ったが、ただ木造を鉄筋コンクリート造りとした。 大成殿は南面し、桁行六十尺(約二十m)、 梁間四四尺四寸(約十四m)内外共に黒色エナメルペイント塗り、 屋根は入母屋造り、銅本丸葺き。 大棟の両端に鬼犾頭をのせ、 下り棟及び隅棟の止端には、鬼龍子を置く。 いずれも青銅製。 正面大額「大成殿」の三字は当時の斯文会総裁伏見宮博恭王の書である。 これらの設計は東京帝国大学工学博士伊東忠太教授による。 4月28日、孔子祭典、儒道大会を開催す。 |
1943年(昭和18年) | 神農像が木村家より斯文会に寄贈され、6月末、 現在の位置(敷地内東北角)に神農廟を移築。 これより毎年11月23日に神農祭を行っている。 |
1945年(昭和20年) | 4月13日、太平洋戦争の東京大空襲により、 入徳門の透塀の一部、水屋は全壊す。 練塀の一部が崩落す。 他の建造物は耐火構造が採用されていたため、この難を逃れた。 |
1949年(昭和24年) | 10月30日、斯文会を中心にして内外の有志約1000人が参列し、孔子生誕2500年記念祭典を斎行す。 大成殿前庭にて宮中雅楽が奏じられる。 朝日新聞者礼講堂、三越本店にて記念講演会・展覧会が催される。 |
1954年(昭和29年) | 4月14日、聖堂並びに附属建造物は、文化財保護委員会の所管となった。 戦災による被害箇所は逐次修理されて旧に復した。 |
1956年(昭和31年) | 4月18日、 文化財保護法により公益財団法人斯文会は文化財保護委員会から湯島聖堂の管理を委託される。 |
1975年(昭和50年) | 11月3日、中華民国 台北ライオンズクラブより、孔子の銅像が贈られる。 1月3日、構内にて除幕式を執り行う。 |
1985年(昭和60年) | 4月28日、湯島聖堂復興満50年を記念し、参列者1000人以上に及ぶ盛大な孔子祭を挙行した。 |
1986年(昭和61年) | 文化庁による「昭和・平成湯島聖堂保存修理(改修工事)が開始される。 斯文会、文化庁工事対象外の附属会館・神農廟改修工事開始。 |
平成時代
年号 | 出来事 |
1989年(平成元年) | 附属講堂(斯文会館)及び神農廟の改修工事が竣工。 |
1990年(平成2年) | 聖堂創建300年記念事業を行う。 8月、記念展覧会「江戸は日本人を創った」を開催す。 (於:日本橋東急)。 11月、記念式典挙行(於:聖堂) |
1993年(平成5年) | 昭和・平成湯島聖堂保存修理工事が竣工す。 3月、記念式典を開催す。 |
1998年(平成10年) | 昌平坂学問所 創建200年・斯文会創立80年記念式典を斎行す。 |
「大成殿」の歴史(由来)
湯島聖堂の前身であり起源は「忍岡聖堂」!
湯島聖堂には前身となる機関があり、名前を「忍岡聖堂」と言います。
忍岡聖堂は朱子学で名前の知られた林羅山により、江戸城北郊の上野忍岡の地(うえのしのぶがおか・現在の上野恩賜公園)に築かれた儒学振興のための私塾であり、孔子廟です。
湯島聖堂誕生以前の「江戸の孔子廟」と言えば、この忍岡聖堂(正式名:先聖殿)でした。
その孔子廟を移転したものが、現在の湯島聖堂「大成殿」の始まりです。
また、孔子廟の移転に合わせて、林家の学問所も移転計画が成ります。
上野・寛永寺付近にあった学問所を移転させることで、儒学と仏教を分離すること、それまで儒学を独占していた林家への幕府の支配力を強めることなどが、移転の主な目的だったと考えられています。
また、上野の学問所の周辺が盛り場となり、学問にふさわしい環境でなくなったことも理由の1つとされています。
そこで移転先の地に選ばれたのが「神田湯島」であり、1690年(元禄3年)に5代将軍・徳川綱吉公のご発意でこの地に造営されたのが「大成殿」でした。
忍岡聖堂の運営維持費は代々の林家の当主(大学頭)が捻出していましたが、神田湯島に新たに造営された大成殿は幕府直轄に置かれたことにより、すべての費用は幕府から捻出されることになります。
大成殿の建物は、最初は朱塗りで青と緑に色付けされていたそうです。
その後度重なる火災により焼失してしまい、さらには幕府の実学重視への方向転換の影響を受けて立て直しが出来ずに荒廃してしまいますが、寛政の改革の一環としての教育政策「寛政異学の禁」により、聖堂の役割が見直されました。
「寛政異学の禁」は、儒学(朱子学)を「正学」とし、その他の学問は「異学」として講義や研究を禁じるものでした。
この政策の中で、1797年(寛政9年)には、林家の私塾だった学問所が、幕府直轄の官学校「昌平坂学問所(昌平黌・しょうへいこう)」となりまする。
昌平坂の名前の由来
「昌平」とは、孔子が生まれた村の名前で、昌平坂学問所は、「孔子の説や儒学を教える学校」という意味で名付けられました。
それがそのまま。この地の地名にもなったとも言われています。
昌平坂学問所とは?
幕府や諸藩は、武士という支配者階級に対し、儒学(じゅがく)の知識と教養を身に付けさせることで、儒学が社会の主要な要素としている「士・農・工・商」という身分的秩序を維持しようとしました。
その学習施設として幕府が設置したのが昌平坂学問所であり、諸藩が設けたのが、長州藩の明倫館、水戸藩の弘道館などの「藩校(はんこう)」です。
18世紀以降、藩政改革における人材育成という観点から、ほとんどの藩に藩校が設置されました。
武家に生まれた子弟の多くはこれらの学校に通い、儒学を学ためにどうしても必要な漢学の基礎を学びました。
その際、教科書として使用されたのが『論語』や『大学』など、四書五経(ししょごきょう)と呼ばれる儒学の基本的な教えが記された書物でした。
既に少々触れましたが、昌平坂学問所は、もともと儒学者として徳川将軍家に仕えた林羅山(はやしらざん)を祖とした、林家の家塾(かじゅく)でしたが、寛政の改革により、官学校となりました。
それからというもの、幕府は、昌平坂学問所の他にも、医学や和学、洋学を教える学校をどんどん開校し、幕臣だけでなく、全国から集まった藩士たちも、これらの学校で学ぶことが出来るような教育体制を作り上げていきました。
「湯島聖堂」の誕生
実のところ、大成殿の造営当初は、大成殿と周辺の建物を合わせて「聖堂」と呼ばれていましたが、この頃からは、湯島聖堂の中で大成殿のみを指して「聖堂」と呼ぶようになっています。
2年後の1799年(寛政11年)には、湯島聖堂の大改築が完成し、敷地面積は12,000坪から1.33倍の16,000坪余りとなります。
※12,000坪は約39,700㎡で、阪神甲子園球場の敷地面積とほぼ同じです。
大成殿の建物も、かつて徳川光圀が明の儒学者・朱 舜水(しゅ すんすい)を招いて建てた水戸の孔子廟に倣い、創建時の約2.5倍の規模の黒い建物に改められました。
こうして、幕府の庇護の下、湯島聖堂は隆昌の一途を辿ることになりまする。
明治時代
江戸幕府の教育機関だった昌平坂学問所は1871年(明治4年)に閉鎖されましたが、この地に創設された東京師範学校(現在の筑波大学)や東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)の源になりました。
明治時代以降、湯島聖堂の構内には、文部省と博物館、大学などの教育関連施設が混在していました。
また、日本で初めての博覧会、「湯島聖堂博覧会」(文部省博物局主催)が1872年(明治5年)3月10日から、大成殿にて開催され(後述)、これが東京国立博物館の創始となりました。
大正時代
後に文部省は霞が関へ、国立博物館は上野へ、東京師範学校・東京女子師範学校は文京区大塚へ、それぞれ移転します。
このように現在につながる文化・教育発展の礎を築いた湯島聖堂でしたが、1922年(大正11年)には敷地が国の史跡に指定されるものの、翌年の1923年(大正12年)の関東大震災によって入徳門と水屋以外のすべての建物が焼失してしまいます。
関東大震災からの復興
現在、昌平坂学問所の跡地の大部分は、現在は東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっています。
昭和時代
関東大震災での倒壊後、大成殿は伊東忠太設計によって大林組施工により、1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造で再建されました。
これは、寛政年間の旧制をもとに設計されたと言われています。
湯島聖堂構内に飾られている世界最大の孔子像は、1975年(昭和50年)に中華民国台北のライオンズクラブから寄贈されています。
また孔子像の他にも孔子の高弟四賢像(顔子-顔回、曾子、思子-子思、孟子)が安置されています。
ちなみに、大成殿の扁額の文字は徳川綱吉、杏壇・入徳・仰高の諸門は持明院基軸の筆です。
湯島聖堂博覧会について
1872年(明治5年)3月10日、湯島聖堂大成殿を会場とする「博覧会」が開かれました。
政府による日本で最初の博覧会で、「湯島聖堂博覧会」とも呼ばれます。
この博覧会は、翌年オーストリアで開催されるウィーン万国博覧会への参加準備を兼ねており、前年の大学南校(文部省の前身)物産会の展示物が引き継がれて展示されました。
「博覧会出品目録草稿」によると、陳列品は、古器旧物(文化財)、剥製、標本などを中心に大変幅広く、600件余りもあったようです。
特に、大成殿中庭のガラスケースで展示された名古屋の「金鯱」は大変な人気となりました。
博覧会は20日間の予定でしたが、観覧者が多く、入場制限がかけられるほどの大盛況となったため、会期を4月末日まで延長する対応が取られています。
博覧会の入場者総数は15万人、1日あたり約3,000人に上りました。
幅広いジャンルの珍しい陳列の品々がガラスのケースに整然と並べられた様子は、当時の人々にとっては、非常に新鮮だったことでしょう。
なお、この湯島聖堂博覧会をもって、上野の東京国立博物館の創始(開館)とされています。
林羅山
- 1583-1657
林羅山は江戸幕府の御用儒学者です。
もともとは一介の浪人の子でしたが、学問が得意で近世儒学の先駆者の藤原惺窩(ふじわらせいか)に入門しました。
公家の批判を受けながらも、日本で初めて市民のための古典公開講座を開講しました。
惺窩の紹介で家康に接近し、江戸幕府の儒官を代表する林家の始祖となります。
当時は学問は身分の高い人のものでりましたが、身分の低い人も学問ができる世界の突破口を開いた人物です。
大学頭(だいがくのかみ)
昌平坂学問所の長官のことを言います。
1691年(元禄4年)綱吉によって羅山の孫の林信篤(鳳岡・ほうおう)が任命され、以後代々林家が世襲しています。
「林家」(りんけ)は文教を司り、儒学・朱子学が大いに盛んになっていきました。
【補足】2018年看板が倒れた事故に関して
アイドルグループ「仮面女子」の猪狩ともかさん(当時26才)が、強風による影響で倒れた湯堂島聖の看板の下敷きになってしまいました。
猪狩ともかさんは救助後、すぐに緊急手術を行いましたが、脊髄損傷による両下肢まひで足を動かすことが困難な状況となってしまいました。
看板の大きさは縦約2.8メートル、横約4メートルで歩道に面した敷地内に立っており、講座やイベントの案内が掲示されていました。
事故の責任問題については双方の弁護士を通して話し合いが行われている状況とのことです。
この看板は事故後すでに撤されています。
湯島聖堂に限らず、史跡などに訪れる際は十分ご注意ください。
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