上野・寛永寺「清水観音堂」
読み方
- きよみずかんのんどう
創建年
- 1631年(寛永8年)
開基
- 慈眼大師天海大僧正
御本尊
- 千手観世音菩薩(像)
項・一覧
清水観音堂のオリジナル御朱印・御朱印帳とお守り
清水観音堂では、御本尊・千手観世音菩薩の御朱印が授与されています。
また、オリジナル御朱印帳は2種類用意されています。
ユニークなお守りもありますので、参拝の際には、ぜひ本堂内の授与所にもお立ち寄りください。
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清水観音堂の御本尊とご利益
清水観音堂の御本尊とそのご利益などについてご紹介します。
御本尊「千手観世音菩薩像」
作者
- 伝・恵心僧都
制作年代
- 平安時代
清水観音堂の御本尊は、比叡山の高僧、恵心僧都(えしんそうず)の作と言われる秘仏「木造 千手観音菩薩坐像」です。
合掌した手と、座した膝の上に禅定印(ぜんじょういん)を結んだ手(合計左右2本ずつ、計4本)の他に、「脇手」と呼ばれる小さな手が40本あり、その手のそれぞれが、仏教におけるあらゆる世界の衆生(生き物)のすべてに慈悲の手を差しのべる姿を表しているということです。
清水観音堂の堂内は撮影禁止ですので、別の千手観音坐像の写真でご説明します。↓↓
この千手観世音菩薩像は、謡曲『盛久』にも謡われる、『平家物語』の以下のような伝説に登場します。
しかし、もはやこれまでという時、盛久の首を切ろうとした刀が折れて命拾いしました。
また、源氏の大将・源頼朝の妻である北条政子の夢に清水寺の高僧が現れて、盛久の赦免を願ったということで、驚いた頼朝は盛久を許しました。
その後、京都に戻った盛久が清水寺に詣でると、盛久の首が切られそうになったちょうどその時、奉納した千手観音像が倒れて手が折れたという話を聞き、千手観音像の守護により命が助かったのだと気づきました。
この千手観音像が、京都から江戸に移され、清水観音堂に祀られたとされ、「盛久受難の身代わり観音」として厚く信仰されてきました。
なお、清水観音堂の御本尊は秘仏であり、普段は扉が閉じられた厨子の中に安置されています。
伝承によれば1,000年近い歴史を持つ仏像ですので、国宝や重要文化財に指定されてもおかしくないものですが、秘仏のため、文化財指定に必要な詳しい調査が未だ行われていないのです。
扉が閉ざされた厨子の前に祀られているのは、「御前立ち(おまえだち)」と呼ばれる、秘仏の代わりの像です。
秘仏である御本尊を模して造られるので、通常はこちらのお前立ち本尊を見て、御本尊を偲ぶのです。
御本尊の御開帳は、毎年2月の初午(はつうま)の日(初午法楽)に行うことになっていますが、これは、上掲の伝説で「首を切られそうになった盛久が観音像に助けられた」時が、ちょうど午の年・午の日・午の刻だったことに由来しています。
恵心僧都とは
恵心僧都は平安時代中期の天台宗の僧で、第18世天台宗座主の良源(元三大師)に師事しました。
多くの経典・論書から極楽往生に関する重要な文章を集め、念仏を唱えて極楽往生すべきことを説いた仏教書『往生要集』の著者としても知られています。
禅定印とは
仏さまの手と指の組み方を「印相(いんぞう、いんそう)」といい、その仏さまの特性や、メッセージを表しています。
禅定印は釈迦が悟りを開いた時の印とされる定印(じょういん)の一種で、座禅をして瞑想する時の印です。
両手のひらを上に向けて重ね、親指の先を合わせるようにした形になっています。
千手観世音(千手観音)のお姿とご利益
千手観音は、正式名称を「千手千眼(せんじゅせんげん)観世音菩薩」といい、観音菩薩の中でも最大のご利益があるとされています。
あらゆる願いを叶える力を持ちますが、特に、病気平癒、延命、減罪など、現生利益があるということで、人気となりました。
清水観音堂の千手観世音菩薩像は、「盛久受難の身代わり観音」ですので、厄除けや災難除けの祈願に訪れる人も多いようです。
千手・千眼の「千」は本当に1000個あるという意味ではなく、「無限」という意味です。
「千」の手のひらそれぞれに目があることから、名称に「千眼」が入っています。
通常は全部で42本の腕を持つ観音像として造形され、合掌する2本の手以外の「脇手」などと呼ばれる40本の手1本ずつに、衆生を救う25の力(働き)があるとされています。
この点、清水観音堂の千手観世音菩薩像の手は合計で44本ですので、少々珍しい例と言えます。
手には宝珠や錫杖などを持ち、具体的にどのような方法で衆生を救うのかが表現されます。
清水観音堂のその他の仏像紹介(子育て観音など)
脇尊「子育て観音」と人形供養
千手観音像の右隣には、江戸時代から子授け・安産・子育ての観音さまとして信仰される「子育て観音」が祀られています。
この子育て観音の前には、参拝して子宝を授かった両親が、子どもの無病息災を願って奉納した身代わり人形が、多数供えられています。
清水観音堂の人形供養
こうして奉納された身代わり人形の供養が、現在行われている人形供養に繋がっています。
人形供養は、毎年9月25日14時から、清水観音堂境内にて行われます。
清水観音堂では、家庭で不要となったり、汚れたり壊れたりした人形の供養を随時受け付けており、9月25日の人形供養の日に焚き上げます。
人形供養受付日
- 毎日(毎月17日午前、正月などを除く)
人形供養受付場所
- 清水観音堂本堂
人形供養受付時間
- 9時~16時頃まで
供養料(奉納料)
- 人形の大きさに応じて3,000円~
- ひな人形など特別なものは3万円~
供養料(奉納料)は人形の大きさに応じて3,000円~5,000円程度、ひな人形クラスになると3万円~となっています。
箱や付属品を外し、人形本体のみを受付にお持ちください。
毎月17日(御縁日)の午前中や、正月など、受け付けていない日もあります。
遠方の方は郵送でも受け付けてくださるそうですので、詳しい申込方法や供養料については、直接お問い合わせください。(電話番号:03-3821-4749(寛永寺))
その他の仏像
子育て観音像の反対側(御本尊の左側)には、聖観音菩薩像が祀られています。
この他、毘沙門天、勝軍地蔵菩薩、二十八部衆(左右に14体ずつ)、びんずる尊者の像も祀られています。
まずは中央の御本尊に、続いて左右の仏さまにお参りください。
二十八部衆とは
二十八部衆は、正しくは「千手観音二十八部衆」といい、千手観音の眷属(けんぞく:つき従う者、脇侍)で、千手観音を信仰する人々を守護します。
帝釈天や毘沙門天、阿修羅などを含む28の神で構成されますが、神々の名称には経典により多少の差があり、像容にもバリエーションがあります。
京都の三十三間堂に安置されているものが、有名な作例で、清水寺の本堂や奥の院にも祀られています。
清水観音堂の歴史や由来
天海大僧正が創建
清水観音堂は、1631年(寛永8年)に、天台宗東叡山寛永寺(とうえいざん かんえいじ)の開山である慈眼大師天海大僧正(南光坊天海)が、私財を投じて造立しました。
天海大僧正は1625年(寛永2年)、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠から寄進された上野の山に、徳川家の菩提寺「寛永寺」を創建しました。
天海大僧正は、比叡山が京都御所の鬼門(東北方向)を守る位置にあるという考え方を江戸にそのまま持ち込んで、江戸城の鬼門を守護する寺院として寛永寺を開き、比叡山に対して「東叡山」寛永寺としました。
そして、境内には、比叡山や京都の有名寺院にちなんだ堂宇を次々と建立しました。
清水観音堂は、寛永寺の伽藍の一部「観音堂」として建立され、その名の通り、京都の清水寺に見立てたお堂となっています。
将軍家の菩提寺である寛永寺には誰でも気軽に入れるわけではありませんでしたが、清水観音堂は当初の山門に近く、一般の人々も参拝できたということです。
堂宇は清水寺の本堂と同じ「懸造り(舞台造り)」で、読み方も、「しみず」ではなく、「きよみず」観音堂です。
お堂の前の石段も、京都のそれに倣って「清水坂」と名付けられています。
御本尊は京都・清水寺から遷座
御本尊は前述の通り、平盛久が奉納した千手観世音菩薩像で、その後、京都・清水寺の義乗院春海上人から、天海大僧正に奉納されたものとされています。(諸説あります。)
元禄年間に移築
清水観音堂は、最初、現在の場所よりも100mほど北側の「擂鉢(すりばち)山(摺鉢山、現・東京文化会館西側の岡)」に建てられたとされています。(諸説あります。)
しかし、元禄年間(1688年―1704年)初期、寛永寺の総本堂である根本中堂の建設が決まると、その工事に伴い、1694年(元禄7年)に現在地へ移築されました。
それでも、本堂の正面に舞台を設けた懸造りは健在です。
清水観音堂を高い位置に建てたのには、江戸城を守護する清水観音堂、そしてその舞台から見下ろす不忍池を、京都御所を守護する比叡山と、そこから見下ろす琵琶湖の位置関係に見立てようという意図が働いています。
上野戦争と廃物希釈
幕末の戊辰戦争の最中、1868年(慶応4年)7月の彰義隊と官軍による上野戦争と呼ばれる戦いで、現在の上野公園の辺りは主戦場となり、寛永寺の伽藍の多くは失われてしまいましたが、清水観音堂や御本尊は奇跡的に無事でした。
上野戦争当時に飛び交ったものと思われる砲弾が、絵馬と共に堂内に掛けられており、調査が進められているということです。
その後、清水観音堂を含む寛永寺は、上野戦争の同年に発布された「神仏分離令」をきっかけに起こった廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動により、境内を没収されてしまいます。
しかし、1879(明治12年)には復興が認められ、焼失した堂宇も再建されて、現在に至っています。
慈眼大師天海とは
江戸時代初期の天台宗の僧で、比叡山で学び同山の復興に尽くしたということで、天台宗中興の祖と呼ばれます。
初代将軍・徳川家康の帰依を受け、以降、三代将軍・家光まで3代に渡って重用され、政務にも関わりました。
家康の死後、「東照大権現」の戒名を贈り、日光東照宮の祭神として祀り、輪王寺を中興します。
その後、江戸・上野に東叡山寛永寺を創建しました。
清水観音堂の見どころ①「本堂」【重要文化財】
名称・読み方
- 寛永寺清水堂(かんえいじきよみずどう)
※重要文化財登録名。通称「清水観音堂」。
※寛永寺では観音堂の部分を特に清水観音堂「本堂」と呼ぶ場合もあります。
造営年
- 1631年(寛永8年)
建築様式(造り)
- 懸造り(舞台造り)
- 木造一重(平屋)・入母屋造
大きさ
- 桁行五間(横幅約9m)
- 梁間四間(奥行約7m)
屋根の造り
- 本瓦葺
重要文化財指定年月日
- 1946年(昭和21年)11月29日
寛永寺・清水観音堂(清水堂)は、上野公園周辺に現存する建物の中で、創建年が明らかなものの中では、最古の建造物です。
1990年(平成2年)12月から1996年(平成8年)にかけて大がかりな文化財保存修理が行われ、元禄時代の姿が再現されました。
鮮やかな朱塗りのお堂で、内部は極彩色となっています。
1990年の修理以前、堂内は黒く煤けていましたが、解体修理工事の際に洗って、色がよみがえりました。
ただ、お堂の中に入ることはできますが、薄暗いので、壁や柱の色や、安置されている仏像をしっかり見ようと思うと、少々大変です。
また、内部は写真撮影不可となっています。
なお、火灯窓(花頭窓)が印象的な渡り廊下の先の建物は書院(書斎、学問所)で、1933年(昭和8年)頃、創建されました。
著名な建築家である伊藤忠太氏の設計ということで、現在でも建築関係者が後学のために見学に来られるそうです。
懸造り(舞台造り)とは
ご紹介した通り、清水観音堂の造りは京都・清水寺の本堂に倣っています。
懸造り(かけづくり)、崖造り、または舞台造りと呼ばれる建築工法で、「舞台」が斜面や崖にせり出すように造られるのが特徴です。
わざわざ建物を建てるのには不向きと思われる急な斜面や崖にお堂を建てるのには、狭く山がちな日本では、平らで広い土地を確保するのがしばしば難しいという事情があったようです。
また、山岳仏教や修験道と呼ばれる、山岳での修業を重視する仏教の浸透により、山に観音像などを祀るお堂が必要になったことも影響していると考えられます。
山岳仏教は日本古来の、山や山にある岩、木、滝、湧水などを神聖視する信仰とも融合しているため、山に寺院を造営するにあたり、むやみやたらに山を切り開けないため、山を破壊する面積をごく小さく留める建築様式として、懸造りが採用されているというのも、理由の1つと考えられます。
清水観音堂の舞台と懸造り
清水観音堂の舞台は、コンクリートの基壇の上に建ち、木造で、朱塗りのお堂に対して黒塗りになっています。
懸造りの建物では、床下に、地面に対して垂直方向の「柱」に加え、並行方向の「貫(ぬき)」を多用するという特徴があります。
京都の清水寺は、山に建てる必要から懸造りになっていますが、こちらの清水観音堂は、「琵琶湖を見下ろす比叡山に見立てた」位置に「清水寺の本堂をまねた」堂宇を建立するという目的があり、不忍池を見下ろすちょっとした丘に建てたもので、斜面へのせり出しも少なく、舞台の下の柱の高さは控えめです。
清水観音堂の見どころ②「月の松」と「秋色桜」
清水観音堂の本堂以外の見どころや名物をご紹介します。
「月の松」
清水観音堂の舞台の前には、枝が曲がりくねって輪の形になっている松があります。
「月の松」と呼ばれる木で、江戸時代末期の浮世絵師・歌川広重の最晩年の作品『名所江戸百景』のシリーズの中の、「上野清水堂不忍ノ池」および「上野山内月のまつ」で描かれています。
「上野清水堂不忍ノ池」では、舞台が実際よりも高めに、誇張されて描かれています。
「上野山内月のまつ」では、江戸の人々も、月の松の輪から不忍池を望み楽しんでいた様子が伺えます。
また、広重と同時期に活躍した歌川国芳や歌川国貞の作品にも、月の松が見えます。
月の松は、明治初期の台風の被害により、長らく失われたままでしたが、広重も描いた江戸の名所を約150年ぶりに復活させようと、寛永寺の方のアイディアで、2012年(平成24年)12月に復元されました。
浮世絵に描かれたような輪の形の枝が自然にできるとは考えにくく、江戸時代の月の松は、植木職人の技によって作り上げられたものと見られています。
復元された月の松の輪も、現代の造園技術を駆使して作られています。
ただ、これはなかなか難しい作業だそうで、およそ3年半かけて仕立てられた上、4本用意されたうちの2本は枯れてしまいました。
残りの小ぶりな1本は、控えとして境内の隅の方に植えられています。
月の松を復元してからは、参拝する観光客が以前に比べて2割~3割増えたということです。
月の松を通して不忍池・弁天堂を望む
月の松は、本堂正面の舞台前(下)に植えられ、ちょうど舞台の高さに輪の部分が来るようになっています。
桜が満開の時期や、木々の緑が茂る夏場になると、輪の向こう側が見えにくくなることもありますが、タイミングが良ければ、舞台から月の松の輪を通して向こう側を見ると、不忍池の弁天堂(辯天堂)や参道が見えます。
清水観音堂周辺は、上野公園を整備するにあたってたくさんの木が植えられましたが、江戸時代には木は少なく、不忍池方向の視界も、もっと開けていたと考えられています。
秋色桜
本堂裏には、秋色桜(しゅうしきざくら)と呼ばれる枝垂桜があります。
現在の秋色桜は1978年(昭和53年)に植え接がれた9代目と言われていますが、初代秋色桜には、以下のような由来がありました。
江戸時代、日本橋小網町の「秋色庵大坂屋」という菓子屋の娘「小川秋(お秋)」が、花見の際に多くの人で賑わう清水観音堂の様子を「井戸端の桜あぶなし酒の酔(えい)」と詠み、句をしだれ桜の枝に結んで帰ったところ、この句が当時の寛永寺住職の目に留まって評判となりました。
お秋は、以前から宝井其角(たからい きかく)に師事して俳句を学んでおり、後に菊后亭秋色(きくごてい しゅうしき)という俳号(ペンネーム)で俳人となって、「秋色女(しゅうしきじょ)」と呼ばれました。
これにちなみ、清水観音堂のしだれ桜が「秋色桜」と呼ばれるようになりました。
「井戸端の桜あぶなし酒の酔」と呼んだ時のお秋は、若干13歳だったと言います。
桜の近くには、句碑が建っています。
秋色桜の案内板と句碑
秋色桜や境内にある他のしだれ桜は、ソメイヨシノよりも若干遅く見ごろを迎えることが多く、例年、4月上旬頃に満開となります。
上野公園のお花見情報は、当サイトの以下のページ↓でご紹介しています。
秋色桜の案内板と句碑の前のヨウコウにも注目!
秋色桜を向かい観て右側にはヨウコウが植栽されていますが、この桜の花弁の色はソメイヨシノなどと比べると少しピンクの色合いが濃く、ひときわ目を惹きます。
上野公園ではヨウコウがあまり見れないので、桜の開花時期(花見)の大きな見どころの1つです。
清水観音堂の名物!「獅子舞おみくじ」
清水観音堂の本堂前には、ガラスケースに入った獅子舞があります。
⬆️写真は料金投入口に赤テープが貼られている。閉堂約30分前になると閉店準備が開始される模様。
これは、お金を投入すると音楽が鳴って獅子舞が踊り、おみくじを1枚引いてくれるというマシーンです。
おみくじは、一般的なおみくじや恋みくじなど4種類から選べるようになっています。
急に激しく動き出す獅子舞にびっくりしないでください!
- 獅子舞おみくじの授与料(値段):200円
湯島天神の似たような獅子みくじがある!
上野公園の付近には関東三大天神の1社たる湯島天神がありますが、この湯島天神の境内にもこれと類似した獅子みくじが置かれています。
獅子みくじを引けなかった方は湯島天神へも参拝してみるのはいかがでしょう。
雪吊り
降雪のある冬期を迎えると、舞台の前に植栽される松の木などに庭園でも用いられる「雪吊り」がほどこされます。
雪吊りとは、降雪により、枝上に積雪ができた際の加重による枝折れを防ぐものです。
このような雪吊りは港区の浜離宮庭園などでも晩秋を迎えると園内の木々にほどこされ、これが当庭園の冬の風物詩ともなっています。
同様にこの清水観音堂の冬の風物詩ともいえるのが、この雪吊りです。歌麿の浮世絵にも描かれていてもおかしくはないほどの光景です。
清水観音堂「願い玉」とは?
「清水の舞台から飛び降りる」という言葉がありますが、もちろん、清水観音堂から飛び降りてはいけません!
代わりというわけではありませんが、清水観音堂には、願掛けの「願い玉」が用意されています。
「願い玉」は、布に包まれた色とりどりの小さな玉で、月に住むうさぎがイメージされています。
それを舞台に示された足のマークの位置から舞台の外に向かって投げます。
舞台の向こう側には、丸い器に白い石を敷いて月に見立てたものがあり、そこに「願い玉」が入れば、願い事が叶うというわけです。
「月」の回りでは、月に住むうさぎが運試しの行方を見守っています。
5回投げて1個も入らない場合もあるくらい難しいですが、願い事がある方は、挑戦してみてはいかがでしょうか。
- 「願い玉」の授与料(値段):5個セット500円
※受付7時~16時頃。雨天時は受け付けていない場合があります。
清水坂
さくら通りから清水観音堂を向かい見ると右脇と左脇に「清水坂」という坂(石の階段)があります。段数は約30段。
「清水」というネーミングを見て察知した方も多いと思いますが、舞台と同様にこれは京都清水寺の仁王門から東大路通り方向へ向かって延びる路のことです。
清水観音堂の住所・お問い合わせ先・拝観時間・拝観料など
- 住所:東京都台東区上野公園1-29
- 電話番号:03-3821-4749
- ホームページ:http://kiyomizu.kaneiji.jp/
- 拝観時間・授与所の営業時間
拝観時間・お守りなどの授与時間:7時~17時
御朱印受付:9時~16時30分頃 - 拝観料:無料
清水観音堂の夜間拝観とライトアップ
正月や「うえの桜まつり」の時期(3月下旬~4月上旬)には、清水観音堂がライトアップされ、夜間拝観も行われます。
清水観音堂へのアクセス・駐車場
画像引用元:寛永寺
上野公園の一角に位置する清水観音堂への最寄駅からのアクセスと、駐車場の情報をご紹介します。
清水観音堂の最寄駅・出口案内
①JR上野駅「不忍口」・東京メトロ上野駅「7番出口」から徒歩約4分
※こちらの地図に記された点線のルートでは、「上野の森さくらテラス」奥のエレベーターを利用します。
②JR上野駅「公園口」から徒歩約4分
③京成上野駅「正面口」または「池の端口」から徒歩約3分
清水観音堂は、上野公園の一角にあります。
最寄駅は、JR・東京メトロ銀座線/日比谷線の「上野駅」と、京成上野駅です。
JR上野駅は「不忍口(しのばず口)」または「公園口」、東京メトロ上野駅は不忍口脇の「7番出口」から出るとスムーズです。
清水観音堂の駐車場
上野公園、清水観音堂にお車でお出かけの方は、上野公園やその周辺の駐車場をご利用ください。
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