【幽霊洞窟と縁結びのご利益が有名】花園稲荷神社・穴稲荷(上野)の境内見どころや歴史とアクセスを‥‥知りたぃ?

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花園稲荷神社は五條天神社の兼務社ですが、五條天神社の境内社ではありません。

五條天神社が移転してくる以前から上野にあった神社で、稲の神様である「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」を祭神としていますが、縁結びの神社としても有名です。

以下では東京上野に位置する「花園稲荷神社」の境内の見どころや歴史についてご紹介しています。

読み方

  • はなぞのいなりじんじゃ
創建年

  • 不明(現在のような規模になった起源は1654年(承応3年/江戸時代))
創建者

  • 晃海僧正(本覚院住僧)
御祭神

  • 倉稲魂命




花園稲荷神社・穴稲荷(上野)境内見どころ

表参道鳥居

鳥居の上部には苔が生えており歴史を感じます。朱鳥居右脇に石碑(社号標)があり「五條天神社 花園稲荷神社参道」と刻まれています。

鳥居を入ってすぐの位置に宝暦3年(西暦1753年)建立の狛犬像があります。少し低い位置にあるので見落としてしまいそうです。

稲荷坂

花園稲荷は、寛永寺が創建された頃から寛永寺の鎮守社として当地に鎮座していた神であり、当時はこの神へ拝する際、この坂を降りて往来していたそうな。

それゆえ、稲荷坂と呼ばれています。

⬆️上から見下ろした稲荷坂

たとえば、1732年(享保17年)に俳人・菊岡沾涼により編纂された「江戸砂子(えどすなご)」にも、この名が見え、さらに1896年(明治29年)に編纂された「新撰・東京名所図会」にも「稲荷坂 忍ケ岡の西方に在りて、穴稲荷社へ出る坂路をいふ」などの記述が残されていることから古くから当地にあった事実がうかがえます。

⬆️下から見上げた稲荷坂

稲荷坂の場所

稲荷坂は上野公園側から花園稲荷神社へ向かった先の出入口(鳥居をくぐった先)にあります。(不忍池側ではなく)

社殿

木々に囲まれている静かな佇まいの社殿です。平日でも多くの方が参拝されていました。

額堂

五條天神社・花園稲荷神社例祭等で使われる額堂。伊藤博文揮毫の扁額「神徳惟馨(しんとくこれかぐわし)」が掲げられています。




手水舎

風化のため造立当初の姿をとどめていませんが、腕組みをした人像が手水鉢の四隅を支えているように見えます。しかし、邪鬼が水盤を支えている姿で作られる水盤も多いためこれはおそらく邪鬼(じゃき)です。

手水鉢は大正13年(西暦1924年)製。手水鉢には、「盥漱(かんそう)清心魂」と書かれています。「盥」は「たらい」、「漱」はうがいを表すので、「盥漱」とは「手を洗い口を漱ぐ(すすぐ)」という意味です。手水鉢は「盥漱盤」とも呼ばれます。

穴稲荷神社(忍岡稲荷神社)

花園稲荷神社の境内社です。花園稲荷神社の元宮でもあります。(注意:穴稲荷神社の内部は写真撮影が禁止されています。写真はお借りしたものです

赤い扉を開け、3メートルほどいくと突き当りに以下のような「穴稲荷」の説明があります。

穴稲荷を作った人物や作った理由とは?

かつてこの穴稲荷の場所やその一帯は「忍が岡」と呼ばれ、狐の一家が棲んでいたそうな。しかし、1625年(寛永2年)に南光坊天海大僧正が寛永寺を創建することになり、狐の一家の住処を奪ってしまうことになります。

そのような事情があったことを露ほども知らず、後で事情を知った天海大僧正は、狐の一家をたいそう憐れんだそうな。

そこで忍が岡に洞穴を作り、この洞穴を狐の一家の住処として御霊をこの洞穴へ祀ったのが穴稲荷の起源とされています。

以後、この洞穴は「忍岡稲荷(しのぶおかいなり)」と呼ばれ、現在に至っては「花園稲荷の旧跡」として篤い崇敬が寄せられています。

この穴稲荷が花園稲荷の元宮(発祥地)とされるのはこのような歴史があったからです。

その左手に洞窟があり、そこに2つの祠が祀られています。「穴稲荷」の祠は入って右側。入って正面が弥佐衛門狐の祠です。壁面に丸い穴が開いております。

「穴稲荷」の上側を見ると、長方形のガラス越しに小さな祠があるのが見えます。




弥佐衛門狐

こちらも、花園稲荷神社の境内社です。寛永寺建立の時、忍岡の狐が住むところが無くなるのを憐み、一洞を造り社を祀ったと伝えられます。

裏参道

裏参道には、奉納鳥居が連なっていて幻想的です。まるで京都 伏見稲荷大社の千本鳥居を見ているようです。外国人観光客にも人気のスポットとなっています。自撮り棒で撮影する人が多かったため、自撮り棒の使用が禁止となりました。ご注意くださいね。

花園稲荷神社の”花園”の名前には思いもせぬ由来があった!!

実は寛永寺が創建したのち、現在のこの花園稲荷神社の敷地より北西一帯は、寛永寺の所有する花畑でした。そんな由来から1873年(明治6年)に「忍岡稲荷神社」から→「花園稲荷神社」へと改称されることになります。

創建以降は主に「忍岡稲荷」と呼ばれたほか、「お穴様」や「穴の稲荷」とも呼ばれ、ひときわ篤い崇敬が寄せられていたようです。

花園稲荷神社の御祭神「倉稲魂命」

花園稲荷神社の御祭神は「倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」という神様であり、これは伏見稲荷大社でお祀りされている「稲荷大神」のことであり、はたまた、伊勢神宮・外宮でお祀りされている「豊受大神」とも御同体の神様とされています。

この神様の幸魂(さきみたま/人を慈しみ育てる力=慈愛)は「屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)」や「屋船神(家船神)」とも呼称され、以下のようなご利益が得られるといわれます。

花園稲荷神社のご利益

花園稲荷神社のご利益は御祭神に因んだご利益として、以下のようなご利益を賜ることができるとされています。

  • 一家安泰
  • 五穀豊穣(農業関係の職業・業界の仕事運上昇)
  • 商売繁盛
  • 開運招来

花園稲荷神社の歴史・由緒

創建年代はいつ?

創建年代については社伝でも不詳ですが、五條天神社が移転してくる以前から現在地にあった神社です。

江戸時代に現在の規模の社殿が造られる!

社伝によると、廃絶されていたお社を承応3年(西暦1654年)、天海の弟子であり、もと寛永寺の塔頭「本覺院(本覚院)」の僧侶でもあった「晃海(こうかい)」が再興したといわれています。

現在も穴稲荷の岩穴には、晃海僧正が再建したときに刻まれた「再建年を記した」刻銘が残されています。

1871年(明治4年)

当神社の社領は創建当初、6600㎡(約2000坪)もの敷地面積を誇りましたが、1871年(明治4年)に明治政府の主導で執り行われた「社寺上地」によって、隣の五條天神社と合わせて約1000坪になってしまい現在に至ります。

幕末に勃発した上野戦争の舞台ともなり、最後の激戦地(穴稲荷門の戦い)としても知られています。

花園稲荷の祭典日
  • 大祭:4月11日
  • 構祭:11月11日
  • 祭日:毎月11日・丑の日




江戸時代(1800年代)の花園稲荷の社地の場所(地図)

上掲写真を見れば一目瞭然だが、”イナリ”と書かれている部分が現在の花園稲荷である。つまり、現在のように隣地に五條天神社はまだ無かったことになる。

1928年(昭和3年)9月

関東大震災後となる昭和3年9月に、日本武尊が創祀した場所にほど近い、現在の花園稲荷神社の境内地(当地、上野)にようやく遷座され、今日に至ります。

つまり、上掲写真で例えるなら、下谷広小路にあった「五条天神」と記載された社地から、「イナリ」と書かれた寛永寺の境内地へ移転したことになりまする。

花園稲荷神社の場所とアクセス(行き方)

花園稲荷神社の最寄駅
  • JR上野駅(公園口)
最寄駅からの所要時間
  • JR上野駅(公園口)から徒歩約5分

花園稲荷神社は「上野動物園の不忍口」から徒歩約30秒の場所に位置することから不忍池に面した場所にあります。同じ敷地に五條天神社があります。

花園稲荷神社(東京上野)のINFO

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