上野東照宮「大石鳥居(石造明神鳥居)」【重要文化財】

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上野東照宮「大石鳥居(石造明神鳥居)」【重要文化財】

造営年

  • 1633年(寛永10年)
奉納者

  • 酒井忠世
再建年

  • 1734年(享保19年)
鳥居の造り

  • 石造・明神鳥居
重要文化財指定年月日

  • 1942年(昭和17年)12月22日

上野東照宮「大石鳥居(石造明神鳥居)」の歴史

大石鳥居の奉納・造営

上野東照宮は、徳川家康公の死後11年が経過した1627年(寛永4年)に、家康公の菩提寺として開山した「東叡山寛永寺」の中に鎮座する神社でした。

大石鳥居は、神社の創建から6年後の1633年(寛永10年)に、当時の老中・酒井忠世(さかいただよ)が奉納したものです。

このことは、鳥居の向かって左側の柱に「寛永十年癸酉四月十七日 厩橋侍従酒井雅楽頭源朝臣忠世」と刻まれていることからわかります。

なお、「源朝臣忠世」とあるのは、酒井氏は清和源氏の流れを引くと主張していたためと思われます。

「寛永十年癸酉四月十七日」の銘

現在でも、崇敬者が大小の鳥居や燈籠などを神社に奉納するというのは、よくあることです。

それは戦国時代や江戸時代の武将、大名たちも同じだったので、全国の神社には、有名な武将たちが寄進したと伝わる鳥居や燈籠、社殿などがたくさんあります。

まして、この上野東照宮は、江戸幕府の初代将軍を祀る神社です。

全国の大名たちが、将軍と幕府に対する忠誠心や自らの権威を示すため、こぞって燈籠を奉納した様子は、境内を見れば一目瞭然です。

上野東照宮に奉納された燈籠

中でも表参道で存在感を発揮するこちらの大石鳥居が、家康公の側近であり、当時、家康公の孫であり3代将軍である家光公に仕えていた老中・酒井忠世が寄進したものというのは、非常にしっくりくる話のように思います。




なお、向かって右側の柱には、

「奉寄進石華表一基東叡山」
「東照大権現 實前 得鉅石於備前国迎茲南海運千當山 陽推而奉建」

という文字が刻まれています。

向かって右側の柱の刻銘

華表とは鳥居のことで、東京大権現は、徳川家康公の神号です。

「備前国(現在の岡山県南東部)」で採石された「鉅石(巨石)」が、船で運ばれて来た旨が記されています。

当時、上野東照宮は寛永寺という寺の中にあったので、寛永寺の山号である「東叡山」、「この寺」を意味する「當山(当山)」の文字も見えます。

上野東照宮に鳥居を奉納した酒井忠世とは

酒井忠世は、雅楽や楽人の統制、演奏、教育などを司る雅楽寮(うたりょう)の酒井氏雅楽頭(うたのかみ)系嫡流七代目・酒井重忠を父に持ち、後に自らも雅楽頭を名乗りました。

徳川家康公と同じ三河の酒井氏はいわゆる譜代大名の筆頭で、忠世も幼いころから家康公に、続いて2代将軍となる秀忠公に仕えました。
関ヶ原の戦いや大坂冬の陣・夏の陣に出陣し、大坂の陣では秀忠公の本陣を守る旗本を務めています。

また、上野那波(こうづけなわ)藩主、伊勢崎藩主、厩橋(まえばし)藩主にもなっています。
大石鳥居に「厩橋侍従酒井雅楽頭」と刻まれているのは、当時厩橋藩主だったからです。

3代将軍家光公が幼くして世継に確定した後は、家光公付きとなり、後に、家光公が師事した3人の傅役(もりやく:世話役)の家臣「三臣師傅説」の一人に数えられています。

幕政では、1605年(慶長10年)から29年間もの長きにわたり老中の職に就き、まさしく徳川家の最側近の一人として活躍しました。

老中を務めていた1632年(寛永9年)に西の丸留守居となり、西の丸に住み始めていましたが、1634年(寛永10年)、将軍・家光公の留守中に西の丸が火災で焼失し、忠世はその責任を負う形で寛永寺に退去・失脚しました。
翌年には許されますが、老中には戻らず、1636年(寛永13年)に大老に任命されますが、まもなく65歳で亡くなりました。

上野東照宮の大石鳥居を奉納したのは、失脚の前年ということになります。

大石鳥居の再建

さて、せっかく酒井忠世が奉納した立派な鳥居でしたが、その後、何らかの事情で、天和年間(1681年~1684年)に地中に埋められてしまいます。

どんな事情があったのか、忠世に恨みがある人がいたのか、詳しいことはわかっていません。

とにかく、埋められた鳥居は50年以上そのままにされ、ついに1734年(享保19年)になって、忠世の7代後の子孫、酒井忠恭(ただずみ、奉納当時は忠知)が掘り起こし、また同じ場所に建て直しました。

この年の忠知はまだ24歳と若く、兄の跡を継いで前橋藩主となったばかりの頃でした。

鳥居の柱の後ろ側には、以下のような修造銘が見えます。

「右石華表者七世祖考酒井忠世所奉建也 今茲蒙台命加琢磨奉再建之
享保十九年甲寅十二月十七日 厩橋城主従四位下酒井雅樂頭源朝臣忠知」

「7世代前の祖先である酒井忠世が奉建した鳥居を、今茲(今年)、磨き直して再建する」というような意味で、再建者は、「厩橋城主従四位下酒井雅樂頭源朝臣忠知」とあります。

厩橋藩主や雅楽頭の地位は、7世代に渡って守られていたことがわかりますね。

忠知が再建してからは、地中に埋められることも、壊されることも焼かれることもなく、1923年(大正12年)の関東大震災(関東大地震)の震度6の揺れでもびくともせず、上野東照宮の表参道の入り口として、現在までその姿を留めています。




上野東照宮「大石鳥居(石造明神鳥居)」の様式と見どころ

上野東照宮の大石鳥居は、「石造明神鳥居(せきぞう・みょうじんとりい)」です。

素材は備前国の御影石です。

鳥居の形としては最も一般的な「明神鳥居」という様式の鳥居となっています。

明神鳥居は、仏教建築の影響を受けた、曲線的な笠木・島木がポイントの鳥居で、以下のような特徴があります。

明神鳥居の特徴

 

  • 柱に「転び」がある
    ※2本の柱が、上に行くほどやや内側に傾いているのを「転び」といいます。
  • 笠木の下に島木があり、両端が上に反り上がっている
    ※笠木・島木の湾曲を「反増(そりまし)」といいます。
  • 額束がある
    ※額束(がくづか)は、社名などを記した扁額をかけるところですが、扁額があるとは限りません。
  • 貫が柱を貫いている
  • 楔(くさび)がある

なお、上野東照宮の大石鳥居にはありませんが、柱の下に「亀腹」があるものも、明神鳥居としては一般的です。

なお、鳥居の柱をよく見ると、継ぎ目のような部分がないので、この柱が1つの石からできていることがわかります。

こんなにも大きく、そしておそらくは非常に重い巨石を、備前国から遥々運んできたのだとすると、かなりの重労働だったことでしょう。

上野東照宮「大石鳥居(石造明神鳥居)」の場所

大石鳥居は、上野東照宮の表側の境内への入り口です。

上野公園の大噴水前の広場からさくら通りに入るとすぐのところにある道を入って、まっすぐ行くと見えます。

噴水前からですと、徒歩3分ほどです。

なお、上野東照宮への入り口は他にもあり、不忍池前の動物園通り側にも、不忍口鳥居と呼ばれる石造の鳥居が建っています。

不忍口鳥居

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